Saturday, August 26, 2017

努力についての論考

"だからね、ときどき俺は世間を見まわして本当にうんざりするんだ。どうしてこいつらは努力というものをしないんだろう、努力もせずに不平ばかり言うんだろうってね"(村上春樹、ノルウェイの森より)
"もしそれなりに野心がある人であるならば、まずどのような環境で競いたいかを選ぶのが重要だろうと思う。環境を間違えると同じ努力をしても登れる高さがずいぶん違う。"(為末大のブログより)
サマリー
  • 努力は実在しないかもしれない・すべては全くの運なのかもしれない
  • 努力には、その努力自体が更なる努力を生むというサイクルがあるが、その段階では既にそれは努力と呼ぶべきものではなくなっている
  • 成功した人は、自分の成功が偶然に過ぎないと認めることができないので、現代版の「努力」が発明されたのではないだろうか

私はいま、「神はいない」と言おうとしている。現代日本における神とは、努力のことである。最近は冒頭の為末大などのように「そろそろ努力だけですべて、あるいは大部分が説明できるという思い込みは捨てないか」という論調も増えてきている。しかし、私はそのことすら否定しようとしているのだ。つまり、「今、一般的に考えられている努力というのは実在しないと思います」と言おうとしている。
論理学的に言うと不存在の証明は難しいので、結局言いたいのは、みんな努力って言うんですけど、そんなものは存在しないかもしれませんね、という消極的な問いかけである。それでも、日本における努力に関する信仰は著しいものがあり、まじめに考えてみると非常にインパクトがあるはずだ。
では、論理的に議論を展開してゆくために、まずは「努力」というものを定義してみよう。

1. 「努力」の定義

三省堂ウェブ辞典によれば、努力とは、「力を尽くして努めること」であり、デジタル大辞泉によれば「ある目的のために力を尽くして励むこと」だそうである。「力を尽くす」というところが共通で、要するに頑張ること、本来であれば楽な方向に流れてゆきがちなところ、その流れに逆らって行くことだと言えるだろう。しかし、この説明では現代一般的に用いられている「努力」という言葉の意味を表現するのには不十分である。例えば、新作のテレビゲーム(死語かな)を睡眠時間を削ってでも一生懸命やることは、力を尽くす、頑張ることではあるが、これを努力というには違和感がある。もう一つ例を出すと、町で悪漢に襲われて必死で抵抗することは同じく力を尽くすことだが、これも努力とは言わないだろう。辞書的には字義を優先して記載したのだろうが、現代の言葉で努力と言えばもう少し絞られた文脈で使われているに違いない。
そこで、実際の使われ方を見ながら努力を改めて定義してみたい。まずは日本で一番偉い人の一人である安倍晋三首相はどのように使っているか。最近のニュースで行くと、産経ニュースによれば、例の加計学園の一件で以下のように述べたそうである。
「しっかりと説明を行う考えだ。国民の信頼回復に向けて努力を積み重ねていきたい」
ここでは、安倍首相は努力を「積み重ねるもの」としてとらえていることが分かる。これが先ほどの例で行くと、悪漢への抵抗を努力と言わないことの理由と重なるように思われる。つまり、努力というのは
(1) 時間をかけて、じっくりと積み上げてゆくもの
であると解釈することができるのである。これは、努力の代表的な例としてのスポーツにおけるトレーニングなどがしっくりくるだろう。
それでは、次に日本を代表する経営者の一人である孫正義氏はどのように「努力」という言葉を使っているだろうか。今年のソフトバンクの入社式のあいさつで、孫氏はこのように述べたそうである。
「人間は概ね自分が意識した方向に育っていきます。強い願望を持って努力し続ける、そういう思いを持つことはとても大切なことだと思います。」
 この表現では、孫氏は努力というものを成長へのドライバーとして考えていることが分かる。これも違和感のないところだろう。つまり、努力をすることによって、その人の何らかの内在的な価値の向上につながるものとして考えられているのである。このことは、最初のテレビゲームの例に対して感じた違和感につながってくる。そして、これまた典型的な努力の例である勉強・勉学に通じるものである。したがって、努力というのは
(2) 何らかの内在的な価値の向上を伴うもの
であるとも言えそうである。
努力の輪郭をより際立たせるために、もう一つだけ、これも日本が世界に誇る小説家である村上春樹から引用をしてみよう。冒頭のノルウェイの森の引用文の少し後に、著者が永沢さんに喋らせているセリフがある。それは、主人公のワタナベが冒頭の引用文に対して、市井の人々は皆それなりに努力して日々を過ごしているのではないかと抗議したことに対しての返答として、こう言わせている。
「あれは努力じゃなくてただの労働だ。俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ。」
これはもちろん、村上春樹の中でさえも「努力」という言葉は多義的であるということを示していて、これはこれで興味深いのであるが、今回は永沢さんの立ち位置から努力を見てみるとすると、彼は努力には主体性や合目的性が必要であると述べているのである。したがって、(2)の価値の向上を伴うのみならず、努力というのは
(3) 明確な方向性をもって、自らの意思で行うもの
であると考えられるだろう。
この三つを合わせて、このブログの上で努力を定義してみると、
努力とは、明確な方向性をもった価値の向上を目指して、じっくりと時間をかけて能動的に力を尽くして頑張ること、である。
と定義できそうである。

2. 「努力」の効果

2-1. 努力の単調増加性
さて、努力は流れに逆らって頑張ることであるが、それは何らかの効果を期待して行われるものであり、その効果は方向性を持った価値の向上そのものであろう。例えば、毎日バッティングセンターに行って野球の打撃練習をするというのは、バッティング技術の向上という明確な方向性をもっての価値の向上を期待してのことであろう。毎日時間をかけて練習していると、そのうち空振りする確率が下がってくる。このように努力が反映して価値が向上する効果を一次効果とここでは呼ぶことにしよう。この努力の一次効果という概念は、努力が (1) 時間をかけて積み上げてゆくものであるということと、 (2) 内在的な価値の向上を伴うものであるという考え方に非常によく馴染む。そしてそこから、一次効果は努力とその目的とする価値との関係について、努力を変数とする単調増加関数の形式(つまり常に右肩上がりの関係)をとるはずであると想定できる。なぜなら、ある量の努力に対して、努力をさらに追加してもその価値が増加しない、もしくは低下するという時点があるとすれば、努力はそれ以上実施されないだろうと考えられるからである。
この努力の一次効果の単調増加性こそが、努力を現代の神たらしめている想定そのもので、一方で努力に対する過剰な期待と誤解とを生む源泉になっているとも言える。つまり、努力の量を増やしていけばいくほど価値が増えると言っているので、価値の目標を定めたときに、適切な量の努力を行えば必ずその目標に到達できるような気がするのである。そのイメージを図2に示した。逆に言うと目標に到達できないのは、努力が足りないからだということになる。しかし、これが間違いだということは数学的に説明することが可能だ。
図3の努力の一次効果も依然として単調増加関数であるが、これは努力の量を増やしてゆくと漸近線に向かって限りなく近づいてゆくというタイプの関数である。努力を増加すれば必ず価値も増加する。しかし、設定された目標に到達できるとは限らない、ということがあり得るということをこの図は示している。実際の例で行けば、多くの努力を積み重ねて100 mの世界記録はどんどん縮まっているが、それじゃあ100 mを2秒で走れるようになるかというと、今のルールでかつ地球上でやっている限りそういう日は来ないだろうといえるのと同じことである(火星でだって無理だろう)。
為末大などが言っているのはまさにこのことで、努力そのものの単調増加性(つまり重要性)は否定するものではないが、能力の限界としての漸近線を概念する必要があり、そして人にはそれぞれ違った漸近線が、生まれる前から用意されているはずだと言っているのである。これはのちに述べるが、為末が陸上界で達成した偉業の存在を考えれば画期的な発言であると言える。にもかかわらず、この発言でさえも努力の本質をとらえるには不十分であるというのが私の考えである。

2-2. 努力の二次効果

さて努力にはこのように、努力の量に応じて価値を高めることができるという一次効果以外にも、「努力をすることがさらなる努力を引き出す」という、いわば正のフィードバック効果のようなものがあるのではないかと考えられる。このような経験をされた方も実は多いのではないか。例えば、
  • 中間テストで日本史をちょっとがんばったら、あっという間に校内順位が上がったのでやる気が出てきて、ますます日本史の勉強に打ち込むようになり、どんどん順位も上がっていった
  • サッカーでリフティングの練習をしていたら、他の人よりもボールタッチがうまくなったので益々サッカーが好きになってより練習にも打ち込むようになった
というような話である。このように、努力が自分のさらなる努力を引き出す効果を努力の二次効果と呼ぶことにする。この二次効果が発生するメカニズムを以下のように整理してみた。

このようにぐるぐると回転してゆくうちに、努力と一次効果との交換を繰り返して価値がどんどん高くなってゆく、ということが起こっているのではないかと考えられるのである。
ここでの肝は一次効果をさらなる努力に導くために、快感が必要になるということである。既に述べたように努力とは、本来は楽な方向に流れて行ってしまうところをそれに逆らって頑張ることであるので、自然には発生しないはずである。それが発生するためには何らかのメカニズムが必要であり、それがこの「競争優位となることによって生じる快感」なのであると、ここでは仮説を立てている。我々は通常、価値の向上そのものだけでは快感を感じることはない。この例でいえば日本史の知識が増えたこと、そのことのみがうれしいということはない。喜びが生じるのは、他の人との関係性においてであって、その典型的なものが競争で優位になることだろう。マラソンと一緒で、タイムよりも順位が大事なのである。二次効果の本質は競争優位によって生じる快感が、更なる努力に向かわせるというループそのものなのである。
努力の二次効果は、いくつかの興味深い示唆を含んでいる。

(1) 競争による格差の拡大を説明できる
「競争は格差を拡大する」ということ自体は現時点ではそのまま受け入れることができるとして(参考)努力の二次効果はそのことに対して説明を与えることができる。つまり、頑張る人は益々頑張るので、頑張らない人との間の差は開く一方となる、ということである。

(2) きっかけとしての初等教育の大事さ
つまり、最初のきっかけで努力と快感との関連性を経験させることができれば自然に努力をするようになる。最初はその関係性を経験していないために、自ら努力を発生させることはできないだろう。したがって、最初の努力について背中を押してあげる必要がある。それが初等教育の、大事な役割の一つだとも言えるだろう。

3. なぜ「努力」は現代日本における神なのか

3-1. 努力は長期利益と短期利益とのトレードオフを含んでいる

さて、このようにして我々は努力を定義し、その性質について確認してきた。ここからは、なぜ努力というものが現代日本においてこれだけ重んじられているのかということを考察する。なぜ努力することがこんなにも評価が高いのだろう?

人間のあらゆる行動はトレードオフを含んでいる。トレードオフとはつまり、何かをすることによって他の何かをあきらめる、ということである。いい例えが図5である。

この栗饅頭を食べるという行動のトレードオフを、もう少しわかりやすく表したのが表1だ。


のび太が望んでいるのは栗饅頭の存在はなくならないのに食味はうまいというその両方を満たす行動であるがそのような選択肢は通常はない。したがって、のび太は栗饅頭が無くならないことを取るか、食味がうまいことを取るか、そのいずれかを選択しなければならない。こういう関係があるとき、その行動はトレードオフを含んでいるという言い方をする。のび太は食味を選んでもいいし、栗饅頭が無くならないことを選んでもいい。これは個人の好み、優先順位の問題である。この「好み、優先順位」についてはのちに触れるが極めて重要である。
それでは努力一般にはどのようなトレードオフが含まれているだろうか。それを示したのが表2である。ここでは勉強をたとえにした。


勉強を始めとする努力のトレードオフは、短期的には流れに逆らって頑張るために何らかの苦痛が発生するものの、価値的に向上するために長期的に見ると有利な状況が招来するということであると言える。すなわち、努力とは短期利益と長期利益とのトレードオフだと言えるのである。普通の小学生であれば、テレビも見たいしゲームもしたい。勉強なんかしたくないと思うものだろう。それでも勉強は自分の将来のために必要なものだから、する。そういうことなのである。
我々は一般に生理的に短期利益を長期利益に優先する傾向がある。喫煙などはその典型であり、多くの喫煙者は自分たちに将来発生する可能性のある様々な健康被害を知りながら、短期利益、すなわち今タバコを吸いたいという欲求を満たすことを優先させる。こういう例は枚挙に暇がないであろう。そして、喫煙者が禁煙をするとき、つまり長期利益を短期利益に優先させるとき、その禁煙は「明確な方向性をもった価値の向上を目指して、じっくりと時間をかけて能動的に力を尽くして頑張ること」という我々の努力の定義に合致する。この定義の「価値の向上」がトレードオフの文脈では長期利益そのものであることにも異論はないであろう。

3-2. 長期利益を短期利益に優先させるための戦略

このように短期利益と長期利益とがトレードオフの関係になっているとき、我々の生理的欲求に逆らって長期利益を優先させなければならない局面こそが、努力の局面であろう。我々が長期利益を優先させることの重要性についてここでは考察してみたい。なぜ我々は努力をしなければならないのか、ということである。

(1) 長期利益の可塑性
例えば勉強の目的の一つに、いい学校に入るということがあるだろう。一度いい学校に入ってしまえば、少なくともいい学校に入ったという記録が残ることになる。このように、努力の目的たる長期利益は、少なくとも一定期間、その人にとって損なわれる可能性が小さい利益である場合が多い。それに対して、短期利益、例えば勉強をしないでテレビを見ていることの喜びはテレビを見終わった瞬間に失われる。このような場合、いい学校に入ることによる利益には可塑性があると言い、テレビを見ることの喜びによる利益には可逆性があるという。可塑性のある利益は、長期的に享受することができるためその量自体も多いだろう。可逆的な利益は、たちどころに消えてしまう。したがって長期利益が短期利益に優先されることは合理的である。

(2) 意志による行動のコントロール
このように長期利益と短期利益との関係は、生理的には短期利益が優先されるが、合理的には長期利益が優先されなければならないという状況になっている。そのような時に、短期利益を欲する生理に逆らって長期利益を追求することは、合理性の追求をする意志の力が生理的欲求を上回っているということを示している。
この意志による行動のコントロールこそが努力を現代日本の「神」の座に押し上げていると言っても過言ではない。あの人は努力をしているというとき、あの人は(弱い私と違って)自分の人生を合理的にコントロールしていて素晴らしい人だという風に評価される。

そして余談であるが、こういうコントロールが個体のレベルでできるのは、生物界では人間だけである。他の生物が一見短期利益に逆らって長期利益を優先する行動をしているように見える場合でも(例えば雛から捕食者の気をそらすために自分が怪我をしているように見せかける親鳥のように)それらの行動は、幾世代を経て、遺伝的淘汰圧による選抜の結果、遺伝子の中に刻まれるのであり、個体の意思によるものではない。その点で、努力というのは人類だけに許されている行動様式である。

さて、このように努力の重要性を見てきたわけであるが、我々の生理的欲求(あるいは動物的欲求と言っても良い)に逆らって我々を努力に向かわせるための戦略は数多く考えられている。我々が先に考察した努力の二次効果は、この典型である。努力によって生じる価値を努力者本人に快感という形で実感させることによって、さらなる努力を引き出すというのがこの戦略の肝である。したがって努力の二次効果を引き出すためには、通常は長期利益を感じるためには長期間が必要となるところ、いかに短期間でその長期利益から来る快感を感じさせるかというところが戦略の成否のポイントとなる。例えば、頻繁にテストを行い、学力の向上を確認させるなどは重要な戦術となるだろう。
努力の二次効果以外にも、我々を努力に向かわせる戦略は存在する。例えばコミットメントデバイスなどと呼ばれるものがそれである。例えば、「俺は明日から毎日10㎞ジョギングする」などと宣言しておくことによって、社会的信用を失わないようにするために毎日走らなけれならない状況に自分を追い込む、などということである。本来ジョギングというのは極めて個人的な活動だし、その目的は健康増進やシェイプアップなどだろう。しかしそのまま実施しようと思うと、短期利益が長期利益に打ち勝ってしまう。そこで、ジョギングによる短期利益に、社会的信頼の喪失という別の短期利益を組み合わせて短期利益の構造を複雑にすることによって自分を努力に向かわせるというのがこの戦略の本質である。こういう類のことは、かなり日常的に行われていることではあるが、この実質は長短の利益構造の複雑化ということなのである。

4. 「努力」の概念矛盾

このセクションで言いたいことはこういうことである。
イチローがあれだけ練習しているのは、イチローは好きなことをやっているだけであって、それは努力とは言えないんじゃないか。それはパチンコファンがパチンコに行くのと差がない行動なんじゃないか。
イチローに対する他意は全くない(ちなみに同い年で1カ月しか生まれに差がないので親しみさえある) 。
我々は前のセクションで、なぜ努力が「神」としてあがめられているのかということに関する考察を行った。それは、短期的な利益に惑わされず、長期的な利益を尊重する意志の力、人生を自分のコントロールのもとに置いていることに対するあこがれの気持ちであるということだ。そして我々はイチローが例えば子供のころからバッティングセンターで夜遅くまで練習をしていたことを取り出して、練習の虫、子供であればゲームもしたいだろうに、努力の人、などと考えるのである。ここではその考え方に対して、イチローも実は人の子なんじゃないかということを言おうとしている。

4-1. 努力の利益構造の複雑化
現代社会は複雑化の一途をたどっており、人々の行動とその動機、利益は様々なものが入り乱れていると言ってもいい。我々はある人の行動を理解しようとするときに、その行動をなるべく単純化しようと試みる。しかし現実の人の判断は、多くの要素を複雑に取り込んで、それを総体として考えて結論を導きだすという形で行われる。例えば、転職などはその典型である。実際には自分のキャリアだけでなく、給料、勤務地、職種、拘束時間、会社の雰囲気といった仕事の状況から、自分の家庭の状況など多くの要素が絡み合って総体としての判断を行うだろう。しかし、外野はそこまで考えてやるようなことは普通はしない。「あいつは給料に惹かれて転職した」などと単純化して考えようとする。
努力に関する利益の問題も、実態は極めて複雑であることが想像される。しかし、外からではその実態はつかめない。実はかなり極端な利益構造になっていることもあり得る。例えば、野球部のエースなどであれば、自分が努力することは自分の技術の向上など単純に自分の長期的価値向上のためという側面以外にも、チームのための責任のようなものを背負いこんでいる可能性もあり、そういう場合にはもはや努力しないことの方が努力することよりも精神的な苦痛が大きいという状況を迎えることになるかもしれない。そうだとするとそういうものは結果的には例えばピッチング技術の向上という価値の向上には寄与するかもしれないものの、もはや努力の要件の一つ「自らの意思をもって行う」を満たさなくなるのかもしれない。
逆にイチローの場合は、ウィキペディアによれば、小学3年生の頃から、学校から帰宅後に近くの公園で父親と野球の練習をしていたらしいので、自分の父親との関係性(褒められたいだとか、怒られるのが怖いだとか)に基づいてそのような努力をしていた可能性がある。最初のきっかけが家族との関連性で与えられ、それがやがて努力の二次効果のサイクルに入ってゆくというのは良く聞く話だろう。
しかし、先ほどの野球部のエースと言い、このイチローのケースと言い、努力の利益構造がここまで複雑化してくるとこれはもはや「流れに逆らって頑張っている」「長期利益を短期利益に優先させている」とは言えないのではないか、という疑問がわいてくる。例えば、今日、しんどいから部活をサボることは、明日登校したときに先生や他の部員に何を言われるかわからないという状況になるので、嫌でも練習に行かなければならない。これは総合的に見ても、ピッチング技術の向上などの長期的利益を短期的利益に、主体的に優先させている状況であるとは言えないだろう。そうであるならば、パチンコに行くという行為をみずからの短期利益に従って行うパチンコファンの行動と、イチローが父親の歓心を買いたくてバッティング練習をする行動とには、ほとんど差がないということにならないか。

4-2. 多様性の問題
我々は努力が効果を発揮するための効率的なモデルとして二次効果のサイクルをこれまで見てきたが、そのサイクルが成立するための重要なピースの一つが、先の図で言うと2.から3.に移るところ、すなわち一次効果の結果として競争優位になるという部分である。二次効果のサイクルが回るためには、きっかけとしての最初の努力を行った結果、単に一次効果を発揮するだけでは不十分で、その効果が発揮された結果として、そこでは他の人と比べて優位な立場に立つ必要があるのである。
小学校の体育の時間に、生まれて初めてバスケットポールを学んだ生徒は、先生に教えてもらいながらバスケットボールの技術などを身に着けてゆく。これは一次効果の例であるが、練習さえすれば誰もが以前よりも技術が向上するというのが努力の単調増加性であることは既に述べた。しかし、その一次効果の曲線は生徒によって様々な傾きを示すことになる。特にバスケットボールなどの競技では背の高さ、体の大きさが重要だから、大きい生徒は同じ時間練習しても、一次効果は他の背の低い生徒よりも大きく出るだろう。そういう生徒は競争優位となり、快感が生じ、例えば放課後自主的に練習をするようになる。これが二次効果のサイクルである。しかし、そのきっかけは単純にその生徒がたまたま背が大きかったためのことであり、単なる偶然、運である。二次効果のサイクルに入れるかどうかが運であるならば、ある課題、この場合はバスケットボールに関して努力をするかどうかもかなりの部分で運に支配されていると言えるだろう。
この議論は、冒頭で振れた為末の議論とほとんど同じであるが、為末の主張はそれでもまだ環境など自分がコントロールできる要素もあるとしているが、このバスケットボールの例などは100%運であり、自分が選択できる要素などはないと言えるだろう。

4-3. 努力の定義の揺らぎ
最初のセクションで、我々は努力を以下のように定義した。
努力とは、明確な方向性をもった価値の向上を目指して、じっくりと時間をかけて能動的に力を尽くして頑張ること、である。
しかし、努力の二次効果のサイクルに入れるかどうかは完全に運によって支配されているのであれば、「能動的に」という表現とは矛盾することになるだろう。なにより、「力を尽くして頑張る」という部分は、努力の源泉が競争優位性に基づく快感である場合には、それはそもそも「力を尽くして頑張」っていることになるのかという疑問が生じることになる。
結局我々が「努力」と考えているものは、その人にとっては快感の追求に過ぎないのであって、決して流れに逆らって、己に打ち克って、力を尽くしているわけではないのではないかと考えられるのである。それは意志を持って長期利益を短期利益に優先させている行為ではなく、単純に自分の短期利益である優越による快感を求めているに過ぎない。ここでは「努力」が内部矛盾を犯している。だから、私の努力に関する結論は以下のようなものになる。
人の営みのうちで「努力」であるものと、そうでないものがあるということには根拠がない。人の行動はすべからくヘドニズム的(快楽主義的)ではないのか。確かに、長期利益を短期利益に優先させるように自分の営みをデザインすることは可能である。しかしその場合も、人の営みの選択自体はあくまでもヘドニズム的である。したがって「努力」は実在しないという仮説は、十分に有効である。
このあたりのことまでは、実は私が初めて思いついたというわけでもない。例えば、芸能人では明石家さんまあたりが同じようなことを言っているようである。しかし、ここからが私のオリジナルな部分である。つまり、「努力」というのは、社会的に成功している人間が自分の成功を正当化するためのデバイスとしての役割を演じているのではないかと思うのである。その論を展開してゆこう。

5. 努力の発明

前のセクションでは、私が「努力」と呼べるものは実在しないのではないかと問題提起した。それは端的に言って、一見努力だと思われるようなものは、単なる快感の追求に過ぎないのじゃないかという仮説である。ここからは、この仮説が正しいと見做して論を進めたい。なぜこのような、有るんだか無いんだかわからないようなものが、いかにもそのようなものがあるかのように主張されているのだろうか。私の仮説は以下のようなものである。
努力が実在せず、すべては運だということになってしまうと、既に社会的に成功している人が、自分の成功に関して主体的な根拠がないことになってしまう。それは成功している人の権威や既得権を脅かすことになる。成功している人がその権威や既得権を、いわばその人に固定するための発明、創り出された神話こそが「努力」なのである。
要するに、例えば同期の中で出世する人間としない人間がいるのは100%運なのだが、そうはっきり言ってしまうと出世した側だけでなく、出世しない側も浮かばれない。そこで、何か出世した側の人間の中に「原因」となるものを探したい。自分が出世して偉そうにできるのは、別に運じゃなくで、自分が偉大だからだ、と思いたい。自分が偉大であるとみんなに思ってもらうためには何が必要か。それは、自分が、例えば人が遊んでいる時間も自分は勉強していた、人が寝ている時間も自分は本を読んでいた、だからこそ、今の私がある。そのようにみんなに思わせなければならない。そこで発明されたのが「努力」という概念なのだ。
社会で成功している人は声が大きい。成功しているという実績が、その人に発言権を与えるためだ。そういう人は、自分の成功は運の産物に過ぎないということを認めることができない。そこでいかに自分が努力をしてきたかということをとうとうと語る。それによって自分は権威を持つのにふさわしい事の説明をするのである。これは運なんかじゃない。俺が努力した、その努力の賜物として今があるのだ。
多くの人たちはこの言葉に騙されてしまう。成功している人が、努力が大事だと言っている。つまり、自分が成功していないのは努力が足りないからなんだ、と。もっと努力をしなければならない。また、社会的に成功している人間ほど、自分の努力を肯定してしまう傾向にある。だから、為末大ほど成功している人間が、努力の本質に疑問を抱くのは異例なことだとも言える。ここで彼は、「俺がここまでこれたのは100%俺の努力のおかげだから、俺は現在の地位にいる資格はある」と、多くの成功者のように開き直って自己正当化しても良かったのである。彼は好奇心旺盛、かつ当たり前のように見えるものを疑ってみることができる能力があるのだろう。

しかし、この「努力もひっくるめて運だ」という真実に漠然と気が付いている人も世の中に入る。例えば、松井秀喜が父親からもらった言葉にこういうものがあるそうだ。
努力できることが才能である。
これは努力できることが必ずしも万人に与えられている選択肢ではないのかもしれないという指摘をしている時点で、努力の本質に少し迫っていると言えるだろう。しかし、もちろんこれすら十分ではない。私の結論はこういうことだ。

人間は人それぞれ違うことをやっているように見えるが、基本的にはヘドニズム的な選択をしながらそれぞれの行動を選択している。ただし、何に快楽を感じるかという点は人それぞれなので、だから人々は見た目はそれぞれ違うことをしているのに過ぎない。善い行動や悪い行動があるわけではなく、あらゆる行動に価値的な上下はない。したがって努力などというものも存在しない。努力があるように見えるのは、社会的成功者たちがそういうものがあると主張することによって、自分たちの権威や既得権を守ろうとしているに過ぎない。


この結論から、以下のような教訓がさらに導かれる。

  • 人を尊敬する必要はない
    • ある人が社会的に成功しているのは完全に運なので、彼らのやり方に学ぶ点はあるかもしれないが、尊敬までする必要はない
    • 逆に言うと、この世に偉そうにふるまうことが許されている人間など一人も存在しない
  • 努力ができないからと言って自分を責める必要はない
    • 目標を達成できる、社会的に成功できるかどうかは完全に運なので、それができなかったとしてもそれは自分でコントロールできることではない、したがって自分を責める必要はない
  • 自分の行動様式のデザインを工夫することが大事である
    • 自分も含めて人間はヘドニズム的な行動選択しかできない。したがってその行動選択の傾向を鑑みながら、上手く行動様式を出材することによって、長期的利益を短期的利益に優先させることができるかもしれない
6. 終わりに

万が一私が将来、小さな社会的成功を収めることになったとしても、その時「長手さん、成功の秘訣は何ですか」と問われれば、
「100%運です」
と胸を張ってこたえられるようにしたいものだと、今から思っている。

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