Saturday, August 26, 2017

努力についての論考

"だからね、ときどき俺は世間を見まわして本当にうんざりするんだ。どうしてこいつらは努力というものをしないんだろう、努力もせずに不平ばかり言うんだろうってね"(村上春樹、ノルウェイの森より)
"もしそれなりに野心がある人であるならば、まずどのような環境で競いたいかを選ぶのが重要だろうと思う。環境を間違えると同じ努力をしても登れる高さがずいぶん違う。"(為末大のブログより)
サマリー
  • 努力は実在しないかもしれない・すべては全くの運なのかもしれない
  • 努力には、その努力自体が更なる努力を生むというサイクルがあるが、その段階では既にそれは努力と呼ぶべきものではなくなっている
  • 成功した人は、自分の成功が偶然に過ぎないと認めることができないので、現代版の「努力」が発明されたのではないだろうか

私はいま、「神はいない」と言おうとしている。現代日本における神とは、努力のことである。最近は冒頭の為末大などのように「そろそろ努力だけですべて、あるいは大部分が説明できるという思い込みは捨てないか」という論調も増えてきている。しかし、私はそのことすら否定しようとしているのだ。つまり、「今、一般的に考えられている努力というのは実在しないと思います」と言おうとしている。
論理学的に言うと不存在の証明は難しいので、結局言いたいのは、みんな努力って言うんですけど、そんなものは存在しないかもしれませんね、という消極的な問いかけである。それでも、日本における努力に関する信仰は著しいものがあり、まじめに考えてみると非常にインパクトがあるはずだ。
では、論理的に議論を展開してゆくために、まずは「努力」というものを定義してみよう。

1. 「努力」の定義

三省堂ウェブ辞典によれば、努力とは、「力を尽くして努めること」であり、デジタル大辞泉によれば「ある目的のために力を尽くして励むこと」だそうである。「力を尽くす」というところが共通で、要するに頑張ること、本来であれば楽な方向に流れてゆきがちなところ、その流れに逆らって行くことだと言えるだろう。しかし、この説明では現代一般的に用いられている「努力」という言葉の意味を表現するのには不十分である。例えば、新作のテレビゲーム(死語かな)を睡眠時間を削ってでも一生懸命やることは、力を尽くす、頑張ることではあるが、これを努力というには違和感がある。もう一つ例を出すと、町で悪漢に襲われて必死で抵抗することは同じく力を尽くすことだが、これも努力とは言わないだろう。辞書的には字義を優先して記載したのだろうが、現代の言葉で努力と言えばもう少し絞られた文脈で使われているに違いない。
そこで、実際の使われ方を見ながら努力を改めて定義してみたい。まずは日本で一番偉い人の一人である安倍晋三首相はどのように使っているか。最近のニュースで行くと、産経ニュースによれば、例の加計学園の一件で以下のように述べたそうである。
「しっかりと説明を行う考えだ。国民の信頼回復に向けて努力を積み重ねていきたい」
ここでは、安倍首相は努力を「積み重ねるもの」としてとらえていることが分かる。これが先ほどの例で行くと、悪漢への抵抗を努力と言わないことの理由と重なるように思われる。つまり、努力というのは
(1) 時間をかけて、じっくりと積み上げてゆくもの
であると解釈することができるのである。これは、努力の代表的な例としてのスポーツにおけるトレーニングなどがしっくりくるだろう。
それでは、次に日本を代表する経営者の一人である孫正義氏はどのように「努力」という言葉を使っているだろうか。今年のソフトバンクの入社式のあいさつで、孫氏はこのように述べたそうである。
「人間は概ね自分が意識した方向に育っていきます。強い願望を持って努力し続ける、そういう思いを持つことはとても大切なことだと思います。」
 この表現では、孫氏は努力というものを成長へのドライバーとして考えていることが分かる。これも違和感のないところだろう。つまり、努力をすることによって、その人の何らかの内在的な価値の向上につながるものとして考えられているのである。このことは、最初のテレビゲームの例に対して感じた違和感につながってくる。そして、これまた典型的な努力の例である勉強・勉学に通じるものである。したがって、努力というのは
(2) 何らかの内在的な価値の向上を伴うもの
であるとも言えそうである。
努力の輪郭をより際立たせるために、もう一つだけ、これも日本が世界に誇る小説家である村上春樹から引用をしてみよう。冒頭のノルウェイの森の引用文の少し後に、著者が永沢さんに喋らせているセリフがある。それは、主人公のワタナベが冒頭の引用文に対して、市井の人々は皆それなりに努力して日々を過ごしているのではないかと抗議したことに対しての返答として、こう言わせている。
「あれは努力じゃなくてただの労働だ。俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ。」
これはもちろん、村上春樹の中でさえも「努力」という言葉は多義的であるということを示していて、これはこれで興味深いのであるが、今回は永沢さんの立ち位置から努力を見てみるとすると、彼は努力には主体性や合目的性が必要であると述べているのである。したがって、(2)の価値の向上を伴うのみならず、努力というのは
(3) 明確な方向性をもって、自らの意思で行うもの
であると考えられるだろう。
この三つを合わせて、このブログの上で努力を定義してみると、
努力とは、明確な方向性をもった価値の向上を目指して、じっくりと時間をかけて能動的に力を尽くして頑張ること、である。
と定義できそうである。

2. 「努力」の効果

2-1. 努力の単調増加性
さて、努力は流れに逆らって頑張ることであるが、それは何らかの効果を期待して行われるものであり、その効果は方向性を持った価値の向上そのものであろう。例えば、毎日バッティングセンターに行って野球の打撃練習をするというのは、バッティング技術の向上という明確な方向性をもっての価値の向上を期待してのことであろう。毎日時間をかけて練習していると、そのうち空振りする確率が下がってくる。このように努力が反映して価値が向上する効果を一次効果とここでは呼ぶことにしよう。この努力の一次効果という概念は、努力が (1) 時間をかけて積み上げてゆくものであるということと、 (2) 内在的な価値の向上を伴うものであるという考え方に非常によく馴染む。そしてそこから、一次効果は努力とその目的とする価値との関係について、努力を変数とする単調増加関数の形式(つまり常に右肩上がりの関係)をとるはずであると想定できる。なぜなら、ある量の努力に対して、努力をさらに追加してもその価値が増加しない、もしくは低下するという時点があるとすれば、努力はそれ以上実施されないだろうと考えられるからである。
この努力の一次効果の単調増加性こそが、努力を現代の神たらしめている想定そのもので、一方で努力に対する過剰な期待と誤解とを生む源泉になっているとも言える。つまり、努力の量を増やしていけばいくほど価値が増えると言っているので、価値の目標を定めたときに、適切な量の努力を行えば必ずその目標に到達できるような気がするのである。そのイメージを図2に示した。逆に言うと目標に到達できないのは、努力が足りないからだということになる。しかし、これが間違いだということは数学的に説明することが可能だ。
図3の努力の一次効果も依然として単調増加関数であるが、これは努力の量を増やしてゆくと漸近線に向かって限りなく近づいてゆくというタイプの関数である。努力を増加すれば必ず価値も増加する。しかし、設定された目標に到達できるとは限らない、ということがあり得るということをこの図は示している。実際の例で行けば、多くの努力を積み重ねて100 mの世界記録はどんどん縮まっているが、それじゃあ100 mを2秒で走れるようになるかというと、今のルールでかつ地球上でやっている限りそういう日は来ないだろうといえるのと同じことである(火星でだって無理だろう)。
為末大などが言っているのはまさにこのことで、努力そのものの単調増加性(つまり重要性)は否定するものではないが、能力の限界としての漸近線を概念する必要があり、そして人にはそれぞれ違った漸近線が、生まれる前から用意されているはずだと言っているのである。これはのちに述べるが、為末が陸上界で達成した偉業の存在を考えれば画期的な発言であると言える。にもかかわらず、この発言でさえも努力の本質をとらえるには不十分であるというのが私の考えである。

2-2. 努力の二次効果

さて努力にはこのように、努力の量に応じて価値を高めることができるという一次効果以外にも、「努力をすることがさらなる努力を引き出す」という、いわば正のフィードバック効果のようなものがあるのではないかと考えられる。このような経験をされた方も実は多いのではないか。例えば、
  • 中間テストで日本史をちょっとがんばったら、あっという間に校内順位が上がったのでやる気が出てきて、ますます日本史の勉強に打ち込むようになり、どんどん順位も上がっていった
  • サッカーでリフティングの練習をしていたら、他の人よりもボールタッチがうまくなったので益々サッカーが好きになってより練習にも打ち込むようになった
というような話である。このように、努力が自分のさらなる努力を引き出す効果を努力の二次効果と呼ぶことにする。この二次効果が発生するメカニズムを以下のように整理してみた。

このようにぐるぐると回転してゆくうちに、努力と一次効果との交換を繰り返して価値がどんどん高くなってゆく、ということが起こっているのではないかと考えられるのである。
ここでの肝は一次効果をさらなる努力に導くために、快感が必要になるということである。既に述べたように努力とは、本来は楽な方向に流れて行ってしまうところをそれに逆らって頑張ることであるので、自然には発生しないはずである。それが発生するためには何らかのメカニズムが必要であり、それがこの「競争優位となることによって生じる快感」なのであると、ここでは仮説を立てている。我々は通常、価値の向上そのものだけでは快感を感じることはない。この例でいえば日本史の知識が増えたこと、そのことのみがうれしいということはない。喜びが生じるのは、他の人との関係性においてであって、その典型的なものが競争で優位になることだろう。マラソンと一緒で、タイムよりも順位が大事なのである。二次効果の本質は競争優位によって生じる快感が、更なる努力に向かわせるというループそのものなのである。
努力の二次効果は、いくつかの興味深い示唆を含んでいる。

(1) 競争による格差の拡大を説明できる
「競争は格差を拡大する」ということ自体は現時点ではそのまま受け入れることができるとして(参考)努力の二次効果はそのことに対して説明を与えることができる。つまり、頑張る人は益々頑張るので、頑張らない人との間の差は開く一方となる、ということである。

(2) きっかけとしての初等教育の大事さ
つまり、最初のきっかけで努力と快感との関連性を経験させることができれば自然に努力をするようになる。最初はその関係性を経験していないために、自ら努力を発生させることはできないだろう。したがって、最初の努力について背中を押してあげる必要がある。それが初等教育の、大事な役割の一つだとも言えるだろう。

3. なぜ「努力」は現代日本における神なのか

3-1. 努力は長期利益と短期利益とのトレードオフを含んでいる

さて、このようにして我々は努力を定義し、その性質について確認してきた。ここからは、なぜ努力というものが現代日本においてこれだけ重んじられているのかということを考察する。なぜ努力することがこんなにも評価が高いのだろう?

人間のあらゆる行動はトレードオフを含んでいる。トレードオフとはつまり、何かをすることによって他の何かをあきらめる、ということである。いい例えが図5である。

この栗饅頭を食べるという行動のトレードオフを、もう少しわかりやすく表したのが表1だ。


のび太が望んでいるのは栗饅頭の存在はなくならないのに食味はうまいというその両方を満たす行動であるがそのような選択肢は通常はない。したがって、のび太は栗饅頭が無くならないことを取るか、食味がうまいことを取るか、そのいずれかを選択しなければならない。こういう関係があるとき、その行動はトレードオフを含んでいるという言い方をする。のび太は食味を選んでもいいし、栗饅頭が無くならないことを選んでもいい。これは個人の好み、優先順位の問題である。この「好み、優先順位」についてはのちに触れるが極めて重要である。
それでは努力一般にはどのようなトレードオフが含まれているだろうか。それを示したのが表2である。ここでは勉強をたとえにした。


勉強を始めとする努力のトレードオフは、短期的には流れに逆らって頑張るために何らかの苦痛が発生するものの、価値的に向上するために長期的に見ると有利な状況が招来するということであると言える。すなわち、努力とは短期利益と長期利益とのトレードオフだと言えるのである。普通の小学生であれば、テレビも見たいしゲームもしたい。勉強なんかしたくないと思うものだろう。それでも勉強は自分の将来のために必要なものだから、する。そういうことなのである。
我々は一般に生理的に短期利益を長期利益に優先する傾向がある。喫煙などはその典型であり、多くの喫煙者は自分たちに将来発生する可能性のある様々な健康被害を知りながら、短期利益、すなわち今タバコを吸いたいという欲求を満たすことを優先させる。こういう例は枚挙に暇がないであろう。そして、喫煙者が禁煙をするとき、つまり長期利益を短期利益に優先させるとき、その禁煙は「明確な方向性をもった価値の向上を目指して、じっくりと時間をかけて能動的に力を尽くして頑張ること」という我々の努力の定義に合致する。この定義の「価値の向上」がトレードオフの文脈では長期利益そのものであることにも異論はないであろう。

3-2. 長期利益を短期利益に優先させるための戦略

このように短期利益と長期利益とがトレードオフの関係になっているとき、我々の生理的欲求に逆らって長期利益を優先させなければならない局面こそが、努力の局面であろう。我々が長期利益を優先させることの重要性についてここでは考察してみたい。なぜ我々は努力をしなければならないのか、ということである。

(1) 長期利益の可塑性
例えば勉強の目的の一つに、いい学校に入るということがあるだろう。一度いい学校に入ってしまえば、少なくともいい学校に入ったという記録が残ることになる。このように、努力の目的たる長期利益は、少なくとも一定期間、その人にとって損なわれる可能性が小さい利益である場合が多い。それに対して、短期利益、例えば勉強をしないでテレビを見ていることの喜びはテレビを見終わった瞬間に失われる。このような場合、いい学校に入ることによる利益には可塑性があると言い、テレビを見ることの喜びによる利益には可逆性があるという。可塑性のある利益は、長期的に享受することができるためその量自体も多いだろう。可逆的な利益は、たちどころに消えてしまう。したがって長期利益が短期利益に優先されることは合理的である。

(2) 意志による行動のコントロール
このように長期利益と短期利益との関係は、生理的には短期利益が優先されるが、合理的には長期利益が優先されなければならないという状況になっている。そのような時に、短期利益を欲する生理に逆らって長期利益を追求することは、合理性の追求をする意志の力が生理的欲求を上回っているということを示している。
この意志による行動のコントロールこそが努力を現代日本の「神」の座に押し上げていると言っても過言ではない。あの人は努力をしているというとき、あの人は(弱い私と違って)自分の人生を合理的にコントロールしていて素晴らしい人だという風に評価される。

そして余談であるが、こういうコントロールが個体のレベルでできるのは、生物界では人間だけである。他の生物が一見短期利益に逆らって長期利益を優先する行動をしているように見える場合でも(例えば雛から捕食者の気をそらすために自分が怪我をしているように見せかける親鳥のように)それらの行動は、幾世代を経て、遺伝的淘汰圧による選抜の結果、遺伝子の中に刻まれるのであり、個体の意思によるものではない。その点で、努力というのは人類だけに許されている行動様式である。

さて、このように努力の重要性を見てきたわけであるが、我々の生理的欲求(あるいは動物的欲求と言っても良い)に逆らって我々を努力に向かわせるための戦略は数多く考えられている。我々が先に考察した努力の二次効果は、この典型である。努力によって生じる価値を努力者本人に快感という形で実感させることによって、さらなる努力を引き出すというのがこの戦略の肝である。したがって努力の二次効果を引き出すためには、通常は長期利益を感じるためには長期間が必要となるところ、いかに短期間でその長期利益から来る快感を感じさせるかというところが戦略の成否のポイントとなる。例えば、頻繁にテストを行い、学力の向上を確認させるなどは重要な戦術となるだろう。
努力の二次効果以外にも、我々を努力に向かわせる戦略は存在する。例えばコミットメントデバイスなどと呼ばれるものがそれである。例えば、「俺は明日から毎日10㎞ジョギングする」などと宣言しておくことによって、社会的信用を失わないようにするために毎日走らなけれならない状況に自分を追い込む、などということである。本来ジョギングというのは極めて個人的な活動だし、その目的は健康増進やシェイプアップなどだろう。しかしそのまま実施しようと思うと、短期利益が長期利益に打ち勝ってしまう。そこで、ジョギングによる短期利益に、社会的信頼の喪失という別の短期利益を組み合わせて短期利益の構造を複雑にすることによって自分を努力に向かわせるというのがこの戦略の本質である。こういう類のことは、かなり日常的に行われていることではあるが、この実質は長短の利益構造の複雑化ということなのである。

4. 「努力」の概念矛盾

このセクションで言いたいことはこういうことである。
イチローがあれだけ練習しているのは、イチローは好きなことをやっているだけであって、それは努力とは言えないんじゃないか。それはパチンコファンがパチンコに行くのと差がない行動なんじゃないか。
イチローに対する他意は全くない(ちなみに同い年で1カ月しか生まれに差がないので親しみさえある) 。
我々は前のセクションで、なぜ努力が「神」としてあがめられているのかということに関する考察を行った。それは、短期的な利益に惑わされず、長期的な利益を尊重する意志の力、人生を自分のコントロールのもとに置いていることに対するあこがれの気持ちであるということだ。そして我々はイチローが例えば子供のころからバッティングセンターで夜遅くまで練習をしていたことを取り出して、練習の虫、子供であればゲームもしたいだろうに、努力の人、などと考えるのである。ここではその考え方に対して、イチローも実は人の子なんじゃないかということを言おうとしている。

4-1. 努力の利益構造の複雑化
現代社会は複雑化の一途をたどっており、人々の行動とその動機、利益は様々なものが入り乱れていると言ってもいい。我々はある人の行動を理解しようとするときに、その行動をなるべく単純化しようと試みる。しかし現実の人の判断は、多くの要素を複雑に取り込んで、それを総体として考えて結論を導きだすという形で行われる。例えば、転職などはその典型である。実際には自分のキャリアだけでなく、給料、勤務地、職種、拘束時間、会社の雰囲気といった仕事の状況から、自分の家庭の状況など多くの要素が絡み合って総体としての判断を行うだろう。しかし、外野はそこまで考えてやるようなことは普通はしない。「あいつは給料に惹かれて転職した」などと単純化して考えようとする。
努力に関する利益の問題も、実態は極めて複雑であることが想像される。しかし、外からではその実態はつかめない。実はかなり極端な利益構造になっていることもあり得る。例えば、野球部のエースなどであれば、自分が努力することは自分の技術の向上など単純に自分の長期的価値向上のためという側面以外にも、チームのための責任のようなものを背負いこんでいる可能性もあり、そういう場合にはもはや努力しないことの方が努力することよりも精神的な苦痛が大きいという状況を迎えることになるかもしれない。そうだとするとそういうものは結果的には例えばピッチング技術の向上という価値の向上には寄与するかもしれないものの、もはや努力の要件の一つ「自らの意思をもって行う」を満たさなくなるのかもしれない。
逆にイチローの場合は、ウィキペディアによれば、小学3年生の頃から、学校から帰宅後に近くの公園で父親と野球の練習をしていたらしいので、自分の父親との関係性(褒められたいだとか、怒られるのが怖いだとか)に基づいてそのような努力をしていた可能性がある。最初のきっかけが家族との関連性で与えられ、それがやがて努力の二次効果のサイクルに入ってゆくというのは良く聞く話だろう。
しかし、先ほどの野球部のエースと言い、このイチローのケースと言い、努力の利益構造がここまで複雑化してくるとこれはもはや「流れに逆らって頑張っている」「長期利益を短期利益に優先させている」とは言えないのではないか、という疑問がわいてくる。例えば、今日、しんどいから部活をサボることは、明日登校したときに先生や他の部員に何を言われるかわからないという状況になるので、嫌でも練習に行かなければならない。これは総合的に見ても、ピッチング技術の向上などの長期的利益を短期的利益に、主体的に優先させている状況であるとは言えないだろう。そうであるならば、パチンコに行くという行為をみずからの短期利益に従って行うパチンコファンの行動と、イチローが父親の歓心を買いたくてバッティング練習をする行動とには、ほとんど差がないということにならないか。

4-2. 多様性の問題
我々は努力が効果を発揮するための効率的なモデルとして二次効果のサイクルをこれまで見てきたが、そのサイクルが成立するための重要なピースの一つが、先の図で言うと2.から3.に移るところ、すなわち一次効果の結果として競争優位になるという部分である。二次効果のサイクルが回るためには、きっかけとしての最初の努力を行った結果、単に一次効果を発揮するだけでは不十分で、その効果が発揮された結果として、そこでは他の人と比べて優位な立場に立つ必要があるのである。
小学校の体育の時間に、生まれて初めてバスケットポールを学んだ生徒は、先生に教えてもらいながらバスケットボールの技術などを身に着けてゆく。これは一次効果の例であるが、練習さえすれば誰もが以前よりも技術が向上するというのが努力の単調増加性であることは既に述べた。しかし、その一次効果の曲線は生徒によって様々な傾きを示すことになる。特にバスケットボールなどの競技では背の高さ、体の大きさが重要だから、大きい生徒は同じ時間練習しても、一次効果は他の背の低い生徒よりも大きく出るだろう。そういう生徒は競争優位となり、快感が生じ、例えば放課後自主的に練習をするようになる。これが二次効果のサイクルである。しかし、そのきっかけは単純にその生徒がたまたま背が大きかったためのことであり、単なる偶然、運である。二次効果のサイクルに入れるかどうかが運であるならば、ある課題、この場合はバスケットボールに関して努力をするかどうかもかなりの部分で運に支配されていると言えるだろう。
この議論は、冒頭で振れた為末の議論とほとんど同じであるが、為末の主張はそれでもまだ環境など自分がコントロールできる要素もあるとしているが、このバスケットボールの例などは100%運であり、自分が選択できる要素などはないと言えるだろう。

4-3. 努力の定義の揺らぎ
最初のセクションで、我々は努力を以下のように定義した。
努力とは、明確な方向性をもった価値の向上を目指して、じっくりと時間をかけて能動的に力を尽くして頑張ること、である。
しかし、努力の二次効果のサイクルに入れるかどうかは完全に運によって支配されているのであれば、「能動的に」という表現とは矛盾することになるだろう。なにより、「力を尽くして頑張る」という部分は、努力の源泉が競争優位性に基づく快感である場合には、それはそもそも「力を尽くして頑張」っていることになるのかという疑問が生じることになる。
結局我々が「努力」と考えているものは、その人にとっては快感の追求に過ぎないのであって、決して流れに逆らって、己に打ち克って、力を尽くしているわけではないのではないかと考えられるのである。それは意志を持って長期利益を短期利益に優先させている行為ではなく、単純に自分の短期利益である優越による快感を求めているに過ぎない。ここでは「努力」が内部矛盾を犯している。だから、私の努力に関する結論は以下のようなものになる。
人の営みのうちで「努力」であるものと、そうでないものがあるということには根拠がない。人の行動はすべからくヘドニズム的(快楽主義的)ではないのか。確かに、長期利益を短期利益に優先させるように自分の営みをデザインすることは可能である。しかしその場合も、人の営みの選択自体はあくまでもヘドニズム的である。したがって「努力」は実在しないという仮説は、十分に有効である。
このあたりのことまでは、実は私が初めて思いついたというわけでもない。例えば、芸能人では明石家さんまあたりが同じようなことを言っているようである。しかし、ここからが私のオリジナルな部分である。つまり、「努力」というのは、社会的に成功している人間が自分の成功を正当化するためのデバイスとしての役割を演じているのではないかと思うのである。その論を展開してゆこう。

5. 努力の発明

前のセクションでは、私が「努力」と呼べるものは実在しないのではないかと問題提起した。それは端的に言って、一見努力だと思われるようなものは、単なる快感の追求に過ぎないのじゃないかという仮説である。ここからは、この仮説が正しいと見做して論を進めたい。なぜこのような、有るんだか無いんだかわからないようなものが、いかにもそのようなものがあるかのように主張されているのだろうか。私の仮説は以下のようなものである。
努力が実在せず、すべては運だということになってしまうと、既に社会的に成功している人が、自分の成功に関して主体的な根拠がないことになってしまう。それは成功している人の権威や既得権を脅かすことになる。成功している人がその権威や既得権を、いわばその人に固定するための発明、創り出された神話こそが「努力」なのである。
要するに、例えば同期の中で出世する人間としない人間がいるのは100%運なのだが、そうはっきり言ってしまうと出世した側だけでなく、出世しない側も浮かばれない。そこで、何か出世した側の人間の中に「原因」となるものを探したい。自分が出世して偉そうにできるのは、別に運じゃなくで、自分が偉大だからだ、と思いたい。自分が偉大であるとみんなに思ってもらうためには何が必要か。それは、自分が、例えば人が遊んでいる時間も自分は勉強していた、人が寝ている時間も自分は本を読んでいた、だからこそ、今の私がある。そのようにみんなに思わせなければならない。そこで発明されたのが「努力」という概念なのだ。
社会で成功している人は声が大きい。成功しているという実績が、その人に発言権を与えるためだ。そういう人は、自分の成功は運の産物に過ぎないということを認めることができない。そこでいかに自分が努力をしてきたかということをとうとうと語る。それによって自分は権威を持つのにふさわしい事の説明をするのである。これは運なんかじゃない。俺が努力した、その努力の賜物として今があるのだ。
多くの人たちはこの言葉に騙されてしまう。成功している人が、努力が大事だと言っている。つまり、自分が成功していないのは努力が足りないからなんだ、と。もっと努力をしなければならない。また、社会的に成功している人間ほど、自分の努力を肯定してしまう傾向にある。だから、為末大ほど成功している人間が、努力の本質に疑問を抱くのは異例なことだとも言える。ここで彼は、「俺がここまでこれたのは100%俺の努力のおかげだから、俺は現在の地位にいる資格はある」と、多くの成功者のように開き直って自己正当化しても良かったのである。彼は好奇心旺盛、かつ当たり前のように見えるものを疑ってみることができる能力があるのだろう。

しかし、この「努力もひっくるめて運だ」という真実に漠然と気が付いている人も世の中に入る。例えば、松井秀喜が父親からもらった言葉にこういうものがあるそうだ。
努力できることが才能である。
これは努力できることが必ずしも万人に与えられている選択肢ではないのかもしれないという指摘をしている時点で、努力の本質に少し迫っていると言えるだろう。しかし、もちろんこれすら十分ではない。私の結論はこういうことだ。

人間は人それぞれ違うことをやっているように見えるが、基本的にはヘドニズム的な選択をしながらそれぞれの行動を選択している。ただし、何に快楽を感じるかという点は人それぞれなので、だから人々は見た目はそれぞれ違うことをしているのに過ぎない。善い行動や悪い行動があるわけではなく、あらゆる行動に価値的な上下はない。したがって努力などというものも存在しない。努力があるように見えるのは、社会的成功者たちがそういうものがあると主張することによって、自分たちの権威や既得権を守ろうとしているに過ぎない。


この結論から、以下のような教訓がさらに導かれる。

  • 人を尊敬する必要はない
    • ある人が社会的に成功しているのは完全に運なので、彼らのやり方に学ぶ点はあるかもしれないが、尊敬までする必要はない
    • 逆に言うと、この世に偉そうにふるまうことが許されている人間など一人も存在しない
  • 努力ができないからと言って自分を責める必要はない
    • 目標を達成できる、社会的に成功できるかどうかは完全に運なので、それができなかったとしてもそれは自分でコントロールできることではない、したがって自分を責める必要はない
  • 自分の行動様式のデザインを工夫することが大事である
    • 自分も含めて人間はヘドニズム的な行動選択しかできない。したがってその行動選択の傾向を鑑みながら、上手く行動様式を出材することによって、長期的利益を短期的利益に優先させることができるかもしれない
6. 終わりに

万が一私が将来、小さな社会的成功を収めることになったとしても、その時「長手さん、成功の秘訣は何ですか」と問われれば、
「100%運です」
と胸を張ってこたえられるようにしたいものだと、今から思っている。

Saturday, December 31, 2016

2016年末に寄せて

お世話になった皆様

2016年は「不思議な」としか形容できないような一年でした。人類がこれまでの築き上げてきた価値観や英知などといったものが、いわゆるポピュリズム的なうねりによって大きな疑問符を突き付けられた年であったと言ってもよいと思います。民主主義や市場の失敗としか解釈できないような出来事が次から次へと起こり、利害関係の調整はより難しく、多様性は分断を助長するものでしかないと皆が考えるようになったように見えます。所有者は自らの所有物が損なわれることを恐れ、既得権益は過剰なまでに守られました。与え、与えられることよりも、失わないことが優先される世界。この世界の傾向こそが今年起こった様々な混乱の原因だったのではないかと個人的には考えています。そしてこの傾向は当分維持されるような気がするのです。来年は欧州の主要国で選挙があり、また「あの」トランプ氏が米国大統領になるのも確実です。2017年には今年起こった様々な混乱を収拾する必要があるはずなのですが、だれもそんな交通整理をしたいと思っていないように見え、世界はまだまだ混乱から抜け出せないように感じています。

そんな中でも、そして日本の医薬品業界の経済的・政治的な低迷にもかかわらず、われわれe-Projectionにとって2016年が飛躍の年であったことに疑いの余地はありません。たった14カ月前に誕生したe-Projectionですが、この1年の間に書籍を出版し、オリジナルな分析論文が5報も掲載され、2つのイベントに参加し、4つの共同リサーチプロジェクトを走らせました。今年、弊社の事業活動をサポートしてくださったみなさま方一人ひとりのおかげであり、いくら感謝しても感謝し足りません。われわれは今後も引き続きこの成長を維持してゆきたいと考えています。そのためには3つの短期目標と、1つの中期目標を設定いたしました。
  • 2017年末までに
    • 都内にオフィスを構えます。
    • 株式会社化します。
    • フルタイムの従業員を一人以上雇用します。
    • これらをすべて無借金で実現します。
  • 2019年には
    • 年商1億円を突破します。
この成長を達成するために。来年早々にも東京都からどのような支援を受けられそうかというディスカッションを始めます。これには様々な助成金や、インキュベーター施設への入居、人材派遣などが含まれます。これまでのところ、東京都中小企業振興公社サイドは非常に前向きで、私たちも彼らの支援企業の一つとしてどのように彼らにもメリットを返して行けそうかという点を含めて考えています。また、引き続きビジネスネットワークの拡大のためにも、また潜在顧客としても、製薬企業、バイオテック企業の皆様方との面談も進めてまいりたいと思っておりますので、どうか変わらぬご支援をよろしくお願いいたします。

新年が皆様にとって良い年となりますよう、また皆様とまたお目にかかれますように願って、年末のごあいさつに代えさせていただきたいと存じます。





長手寿明
President, e-Projection

Friday, December 30, 2016

Year end remarks 2016

Dear our supporters,

Due to the lack of a better expression, 2016 was an "interesting" year, which many of our conventional values and wisdom were challenged by somewhat populism-related tides. We have experienced multiple and consecutive events that could be interpreted as a failure of democracy and of markets. Interests were not aligned within the general public, and diversity seem to only increase the internal divide. All over the world people seemed to be apprehensive about losing what they already own and was trying to over-protect their vested interests. There was less sense of giving and more of defending. And in my opinion, this was the cause of the huge mess that happened this year and I see no signs of improvement moving into the next. We have upcoming general elections in major European countries and the controversial President-elect in US will certainly become the Commander in Chief. More simply, in the coming year, people will have to pay back their bills. But nobody seems to be feeling that they are responsible.

Looking back on this year's e-Projection's business, 2016 was undoubtedly a year of expansion despite of the tough economic and political environment in the Japanese pharmaceutical industry. Founded just fourteen month ago, we have published one textbook, five original research articles, attended two conferences and went into four research collaboration deals. I cannot thank more to you all who supported our activities in the last 12 months. We will continue to strive after our growth in the coming year. We have three clear short-term goals and one mid-term, which are,

  • by the end of 2017
    • we will settle into a physical office
    • we will be incorporated as private company
    • we will hire more than one full-time employee
    • we will achieve this without any debt financing
  • on year 2019
    • we will become a 100 million JPY (approx USD 1 million) business
Early next year we will start discussions with the Tokyo metropolitan government about the subsidies and other offerings that can boost our growth. This will include moving into a startup incubator, financial supporting and accessing human resources. So far they are positive on the prospects of our business and we will see how our business can increase the diversity of the portfolio of companies that they support. Also, I will continue to meet with companies using various opportunities not only as a potential customer but also trying to expand the network of business.

I wish you all the best for the coming year and hope to see you in person very soon.





Sincerely yours,


Tosh Nagate
President, e-Projection

Saturday, December 3, 2016

未婚であることのトレードオフ

土曜の昼下がり、代々木上原の駅ビルに入っている中華料理屋「梅蘭」で一人で昼食を取ることにした。店に入り、一人であることを告げると、店員に案内されたのは長いソファーに向かって小さなテーブルがたくさん並んでいる席で、反対側には椅子があるものの混んでいなければ一人用の席として用意されていると言っていい席である。

周りを見渡してみると、少なくとも私と同じか、年上のお一人様ばかりがその一人用のテーブルに並んでいる。それどころか店の中はほとんどが一人できている客である。男女比は4:6で女性が多いか。なんだかある意味凄惨な眺めである。自分を棚に上げて思う。この人たちはいったいどういう理由で一人で土曜日の昼食を一人で中華料理店で取らなければならないのであろうか。家族はどうしたのか。そもそも普段は何をしているのだろう。

そのようなことを考えていると、隣の60代と思われる男性が帰り際に(案の定)店員に文句を言い始めた。「餃子のたれの量が多すぎる。餃子は二切れしか来ていないのに、これじゃあ日本人の感覚から言うともったいないんだよ。四切れならこの量で良いけど、これじゃあ多すぎる。いや、いおいしいよ。おいしいから言うんだよ。」これを横で聞いていて、私はますます陰鬱な気分になった。きっと本人に悪気はない。恐らく店のためを思って言っているのだろうが、それによってオペレーションに何らかの変更が加わるはずもないし、それでも店員はぺこぺこして謝りながら聞いている。ここでは双方に悪意はない(強いて言えば男性は罪のない自己顕示欲を発露させているのが未必の故意に近いかもしれない)。にもかかわらず、こういう不幸なことが起こって、店員も男性も、そして何より隣で聞いている私も少しずつ不幸になっている。こういう現象をミクロ経済学では負の外部性negative externalityという。

ここでは思い切って途中の議論はすっ飛ばして、結婚をしていないこと、すなわち独身でいることがある種の負の外部性が生ずるような性質と相関している、と仮定してみよう。乱暴な議論だが、土曜日の昼下がりに一人で(やや)ハイエンドな中華料理屋で食事をしているのは、少なくとも半数以上は独身者であるのに違いない。なぜ彼ら、彼女らは独身なのだろうか。独身でいる理由と負の外部性との間に何らかの関係性があるはずだ、というのが今回の仮説である。

日本では、国立社会保障・人口問題研究所という厚生労働省の関係団体が「独身者調査」という(恐ろしい)調査を行っている。この調査は大雑把に言うと「若者が結婚して子供を作らないことが原因で日本は高齢化社会に向かっているんだから、そうなっている理由を先ずは調査し、対策を考えよう」という趣旨で行われている。調査は主に18~34歳の未婚者を対象とした定量調査という体裁になっている。このことからもわかるように、この独身者調査は決して独身者全体を対象とした調査ではない。しかし大事なことは、この調査がかなりの長期間にわたって定期的に行われているということである。したがって、時系列的な変化を追ってゆけば、かつての若者であった今の高齢独身者がなぜ独身であることを選択したのかということを考えるヒントになってくれる可能性があるのである(ここでも我々は、今でも独身であることを選んでいる高齢者はかつて若かりし頃にも独身であることを選び取っているはずだという乱暴な仮説を置いている)。

図表I-1-6は18~34歳の未婚男女が「結婚の利点」であるとして考えている要素を時系列的に表現している。ここで見られるパターンとしては以下のようなものがあるだろう。
  • 「精神的安らぎの場が得られる」と「愛情を感じている人と暮らせる」といったようなエモーショナルなメリットを感じている調査対象者は減少傾向にあり、「自分の子どもや家族をもてる」や女性の「経済的に余裕がもてる」というファンクショナルなメリットを感じている調査対象者は増加傾向にある。
  • 「経済的な余裕がもてる」という項目では女性には著しい増加傾向が見られるのに対し、男性は低く維持されており、このことは結婚という制度に由来する経済的な相互依存度の性差が拡大して行っていることを示している。
  • 逆のパターンが見られるのが「愛情を感じている人と暮らせる」であり、もともとは女性が男性より高かったものが、最近では値が近づいてきている。
気を付けなければならないのは、これは結婚をしていない男女に結婚についてどう思うかということを聞いた結果であるために、当然結婚を経験してから感じたことを述べているわけでないということである。ここから見えてくるのは、年配の未婚者にとって結婚とはよりエモーショナルなものであって、逆に言うとファンクショナルな理由から結婚を選ぶという必要性が、今のいわゆる「結婚適齢期(この言葉は個人的にはおかしいと思っているのであえて鍵括弧をつけている)」の未婚者ほどにはないのではないか、と仮定できるということである。

一方、図I-1-8は、同じく18~34歳の未婚男女が今度は「独身生活の利点」であるとして考えている要素を時系列的に表現したものである。こちらは現在の自分の未婚者であるという状態についての経験に基づいたものであることが、先の図表とは大きく異なる点である。これについては、以下のような解釈が可能であろう。
  • 「行動や生き方が自由」であると感じている調査対象者が圧倒的に多く、またそれ以外の要素と比べても極めて多い。
  • 一般的には「結婚の利点」に比べて、時系列的に変動の傾向があまり見られない。
  • 「広い友人関係を保ちやすい」「異性との交際が自由」という結婚以外の人間関係に対する指向性に減少傾向が見られる。

更に図表I-1-7の「未婚者の独身生活の利点」に関する考えの情報を見てみよう。ここから言えそうなことは、

  • 独身生活に利点があると考えている未婚者は男女とも高い割合を維持している。


したがって、過去も未来も、つまり世代にわたって、未婚者は自分が未婚であることを概ね肯定しており、かつその理由は圧倒的に行動や生き方が自由であることによっているということなのである。これらの結果を実社会に大胆に当てはめてみるとこういうことが言えるかもしれない。
  • 日本の社会には、世代を超えて一定数、自由を求めて独身で居続ける、もしくは少なくとも居続けたいと思っている人がいる。
  • 若い世代の未婚者は子供や家族を持つことや、経済的な余裕といったようなファンクショナルな目標を達成するのであれば、自由を捨てて結婚をせざるを得ないというトレードオフを認識している可能性がある。特に若い女性には経済的な余裕を求めて自分の自由をあきらめようとする傾向があるようにも見える。
  • 高齢の未婚者は(おそらく若い世代に比べて裕福であるために)そのようなファンクショナルな必要性を求めておらず、結婚生活とはエモーショナルなものであると考えており、(自分と違って)結婚をしている人はファンクショナルな必要性ではなく、精神的依存性を求めて結婚しているのではないかと考えている可能性がある。

つまり、若い世代で結婚している人の中にはいわば経済的な必要性に従って止むを得ず結婚しているように見える人もいる一方で、高齢の独身者はいわば「自由を勝ち取っている勝者」として自分を見ている可能性がある。そうだとすると、ある土曜の昼下がりの「梅蘭」の60代の男性がとった行動は、世の中のことを分かっていないが故に、だらしない若者の店員に対して教えを垂れてやっているとの立場からのものである、と考えることもできる。

いずれにせよ迷惑な話なのだが、世代間にこういう傾向があるということを把握しておくと、自分の行動も一般的にはそういう世代による影響を受ける可能性があるということを認識しながら行動できるのかもしれない。

Sunday, November 6, 2016

海外出張について

本格的に出張に行くようになったのはもちろん30歳になって勤め始めてからなのだが、海外出張となるとさらに遅くて35の誕生日を迎えるにあたってサンフランシスコに行ったのが生まれて初めてである。ちなみにそもそも日本国外に行ったこと自体もそれが初めてであり、学生時代から海外旅行などをしてきた同期などと比べるとはるかに遅い。その後は定期的に海外に出張に行っていたが、自分を出張の達人などと吹聴する気はない。海外出張に自分よりも高頻度で言っている人間なんていくらでもいる。

自分の場合はこのようにしてそもそも初めて海外に行ったのが遅かったので、行って来いと言われて初めての時は、実際にどうやって行くのかをインターネットを調べまくっておっかなびっくりだった記憶がある。しかし、繰り返し行くうちに、自分のような庶民がどうすればうまく出張を、実務的にも、心理的にも乗り切れるのかということに関するコツみたいなものがだんだん蓄積されてきた。その中には多分にユニークなものもあるはずなので、ここでいったん整理してみようというわけである。今後私のように30半ばすぎてから初めて海外出張に行く人間の、少しでもお役に立てれば幸いである。

1) 洗濯
自慢ではないが、私の自宅には洗濯機というものがない。必要に応じてコインランドリーと手揉み洗いとを組み合わせている。これにはいろいろな健康上の理由もあったりするのだが、私自身があんなカビだらけの醜い箱が部屋の中に存在しているのが許せない思っているということもある。私はそもそも洗濯は嫌いではない。だが、主張先での洗濯はことのほか楽しいのである。幾つか理由を挙げてみる。
  • 温水が使い放題: ざぶざぶ使っても全く罪悪感がない。石鹸水に洗濯物を付けて30秒ほど揉んだら風呂桶が半分くらいになるまで温水を張って二回ほど濯げば、洗濯機を使うよりもはるかにきれいになる。
  • タオル脱水ができる: 手揉み洗濯の最大の問題点が脱水である。しかしながら、ホテルであればその問題は完全に解消できる。つまり、濡れた洗濯物を少しだけ絞ったら(強く絞ると線維を痛めるので注意)、広げたバスタオルの上に広げて、そのまま海苔巻きの要領でくるくると巻く。そのうえで、筒状になったタオルごときゅっと絞るのである。そうするとかなりの水分がタオルに移ってしっかりと脱水できる。ホテルにはふつう余分にタオルが置いてあるし、毎日取り換えてくれるので、極めて好都合である。
  • 加湿: 冬の洗濯ものの部屋干しの大きな動機の一つとなる加湿であるが、日本よりも湿度の高い先進国はシンガポールくらいであり、アメリカやヨーロッパではいつも干している端から瞬く間に洗濯物は乾いてゆく。まあ、実際に加湿効果がどれほどあるかは疑問であるが。
  • 帰国後の後始末の軽減: はっきり言って、汚れた洗濯物を一杯にスーツケースに抱えて帰国したくないのである。汚れた洗濯物というのは「悪」である。そんな文字通りのお荷物をいっぱいに抱えて空港につきたくない。家に帰ってから改めて洗濯とかはもう疲れて時差ボケで、ごめんこうむりたい。
この目的のためだけに、私はシャツのハンガーと折り畳みハンガーとを、出張の際には忘れずにもってゆくことにしている。

2) ジョギング
更に自慢ではないが、私は海外旅行というものをしたことがない。つまり、海外には仕事でしか行ったことがないのである。海外旅行などは女子供の行くものであって、大和男児が行くものではないと固く信じているし、日本人にはそもそも海外でバカンスなどは向いていないとも思っている。はっきり言って日本人男子が海外旅行に行く目的はただ一つ。帰国してから自慢するためである。大学時代から海外旅行によく行っている同級生などのする土産話を私は心ひそかに馬鹿にしていた。やや極端な意見かも知れないが、私は古風な人間なのだ。
しかしそんな私でも、海外出張でたまたま縁があって訪れたその街から、出来るだけのものを吸収したいとは思っている。やはり、多様性は今まで抱えていた問題を別の角度から眺める可能性を提供し、その問題をより効率よく解決するためのヒントを与えてくれるかもしれないとも思っているのである。
そんな時に一番お勧めしたいのはジョギングである。地図を見ながらコースを決め、そこに住んでいる住人と同じ目線で街を眺める。すると観光ガイドが教えてくれないようないろんなことに気が付くはずだ。例えば、私が昔から注目しているのが野鳥である。同じスズメのような鳥でも、日本と海外とでは微妙に違う。そんなことも、ホテルのジムで運動していたのでは気が付かないだろう。
また海外出張ではどうしてもカロリー収支が入超になる傾向にある。美味しいものも出てくるし、朝ご飯はビュッフェスタイルのところも多くて、今まで朝ご飯など殆ど食べなかった私のような人間でも思わずがっついてしまうのである。そんなときにもジョギングはお勧めである。ジョギングシューズだけ持っていけばできる手軽さもよい。ただし、交通事故だけには気を付けなければならない。海外でけがをすることがないようにしたいものだ。

3) 海外出張とはマウンティングである
eメールやSkypeがあり、チームがいくら地理的に離れていてもいくらでも一緒に仕事ができる環境になっている。それにもかかわらずなぜ我々は物理的に移動しなければならないのだろうか。確かに、仕事の中には、face-to-faceで向き合った状態の方が効率よくこなせる場合もある。しかし、私は言いたい。海外出張とはマウンティングであると。「俺は会社にとって、これだけビジネスクラスで出張に行かせて貰えるくらい、重要な人間なんだ」「わかったか、お前らとは違うんだ」
実際に、海外出張に行っていることを自慢する人は多い。恐らく、フェイスブックなどはその目的のために主に使われていると言っても過言ではあるまい。そして、やがてそういう連中は自分のマイルがいくら溜まっただとか、フリークエント・フライヤーのステータスがゴールドだプラチナだと騒ぎ始めるのである。実に見苦しい。逆に、私のように海外出張をお預けを食わされていた人間は(某社に勤めていた時には社命でパスポートを取ったものの、その後2年近く一度も海外出張に行くことはなかったという、苦い思い出がある)それだけに結構ルサンチマンがたまったりしていた。だからこそ声を大にして言いたい。「そんなこと言ったって、所詮会社に行かせてもらってるだけだろ」と。

そして、初めて海外出張に行くあなた。おめでとうございます。しかし、社内には必ずあなたの海外出張を面白くないと思っている人がいます。その人たちのことも考えて、どうかそっと行ってきてください。決して自慢げに行ってはなりません。「同期の中で俺が海外出張は一番乗りだ」だとか、そういうことは顔にも出してはいけません。ましてやフェイスブックにあげるなど、論外です。日本社会は嫉妬の社会。ねたまれていいことはありません。あなたが海外に行っている間に、ひそかにあなた抜きの同期会が計画されてしまったりするものなのです。きっとそこでは、いつも以上にあることないこと言われます。誰にも内緒で行くぐらいでちょうどいいのかもしれません。

このくらいの心の準備をしておくと、海外出張くらいは余裕でこなせるのではないだろうか。

Thursday, August 18, 2016

The Constitution as a Commitment Device and its Limits

Hitotsubashi University, the beautiful campus where I studied law
Although I studied law when I was in undergrad, I should not say that I am an expert on it. Japanese collage education only by itself is mostly not enough to rear a cutting edge expert. In the sector of social science, especially the faculty of law is usually positioned as a place which graduates are more generalist than they are an expert. Unlike the US, law school graduates are not automatically considered as lawyers but they have to go post grad schools and pass a tough exam to become a full-fledged legal professional. This in return puts the undergrad school a little bit in the middle.

However, that does not mean that I have no interest in jurisprudence (in fact I studied it for five consecutive years!). Here I am trying to discuss about the potential amendment in our Constitution, given the results of the latest election of the Upper House. At the beginning I should make my position clear; I am pro to any amendments, not only but certainly including the 9th Clause. For those who are not familiar with the Japanese Constitution (even though very recently Joe Biden told that it was the US that had written it) the 9th Clause declares that Japan should pursue peace and therefore will not possess any army forces as well as armaments forever.

While it is important that we prepare laws prior to any exercise of power, any law including the constitution is merely a description of a set of rules. Turkish president Mr. Recep Tayyip Erdogan is allegedly trying to re-introduce death penalty to punish the coup leaders retroactively, which is clearly a violation of the principle of legality and cannot be tolerated.

One of the main objectives of a constitution is to restrain state power. Governments can stampede in the direction against national and people’s interest, a prominent example being resort to warfare against other countries. War can happen in a situation when nobody in the country is looking for it, and in order not to make that happen there should be some sorts of safety valves in place. The Japanese Constitution has that mechanism built in as the declaration of the pursuit of peace.

Any law including the constitution is actually implemented and enforced by state power, therefore when we talk about the constitution trying to limit state power, what happens in fact is that state powers conflict internally. What does that mean that powers cause internal conflicts? It sounds a bit strange. But the powers that are conflicting are those in the past and present. Let me try to explain.

After WWII, on the reflection that Japan was responsible as pulling the direct trigger to the World War, the Japanese government decided to make sure that something like that will never happen again. However, under different conditions, Japan may once again resort to warfare at any time in the future. The whole idea was that declaring peace in the constitution may work to prevent Japan from going to that direction. In behavioral economics we call something like this a commitment device.

So the declaration of peace in the constitution was an approach to watch and surveil the government beyond time. Yet common sense tells us that this approach has limitations. If Prime Minister Abe seriously wants to attack another country with force, the constitution is not enough to avoid him from doing so. Even if the past Prime Ministers at the time when the constitution was published all gather together and try to stop him, they effectively have no political power (and of course they have all passed away).

Therefore the constitution itself does not have the ultimate power to prevent our country from exercising state power and resorting to warfare. What embodies this preventive power is the people. If the all citizens in Japan keep on telling NO to the government it can never get into war. On the contrary, if all Japanese people desire war, there will be nothing to stop it from happening. It was not Hitler as a person but nationalism at that time in Germany that caused the WWII.

Reliance to the constitution shows that we are not putting the right amount of confidence on our government as well as onto ourselves about the ability to review what our government is doing. We should be proud of the power of our democracy. We should not depend on such a conceptual institution in making decisions about our future.

Language of the Constitution should be flexible enough to meet the fast changing environment. Rules are just rules and not more than that. The goals, things that we think we really need, should come first and rules should always be secondary. Recent discussions around the 9th clause makes me uncomfortable as those obstructionists who are calling for conserving the “Peace Constitution” or claiming that they are “Not Allowing Abe” to change anything appears to me that they are severely myopic. Wasn’t this very myopia the actual cause of Japan moving towards WWII? They should start thinking about what a true and effective democracy is. And I think there is a global trend at the moment that people are somehow forgetting the real value of democracy, which puts us on a politically riskier situation.

Wednesday, August 17, 2016

コミットメンドデバイスとしての憲法

美しきわが母校
私は法学部卒の法学士だが、法学については専門家であるというわけではない。日本の学部教育ってそういうものだよねと言ってしまえばそれまでだが、社会科学系の学部の中でも特に法学部はつぶしが利くというか、専門的になろうと思うとその上の法科大学院から法曹という専門教育のセグメントもあるので、学部教育は一般的になってしまうのも無理からぬことではある。

とはいうものの法学について何の知識も興味もないということでもない(5年も勉強したので、苦笑)。ここで話題にしたいのは今般の参院選の結果を受けての憲法改正に関する議論である。最初に自分の立場を明確にしておくと、私は憲法は必要に応じて改正すべきであると考えている。別に九条に限ったことではなく、しかし九条も明確に含んでいる。

なぜか。それは、憲法も含めた法などというものは、所詮はルールを書き表したものに過ぎないと思っているからである。ルールにはいろいろな存在意義があると思うし、ルールを予め表明しているということは非常に重要なことである。トルコのエルドアン大統領が死刑を復活してクーデターの首謀者に対して適用しようとしているようだが、こんな罪刑法定主義というか遡及効を無視したような暴挙が許されていいはずがない。

しかしながら、憲法に関してはその最大の目的といえるのは国家権力の制限であろう。国家権力は時として暴走し、それは結果的に国民の利益に反する行動をとる場合がある。その最たるものが国際紛争について戦争という手段に訴えることである。戦争は国民誰もが望んでいないのに起こってしまうことがあるため、そういう状況が、少なくとも日本には招来しないようにするためにも、様々な安全弁を用意しておきたい。その安全弁の一つとして、戦争をしないことを自ら宣言しておくという役割を、憲法は部分的に担っているのである。

ところで、憲法に限らず、法というものは結局のところ国家権力が作り、インプリメントするものである。したがって、憲法が国家権力を制限するというとき、それはすなわち国家権力が内部矛盾するということをもって制限が実効を持つことになる。同じ権力がそのような内部矛盾を宿すということはどういうことだろう。ちょっと考えてみると不思議な気がするのであるが、要するに矛盾しているのは昨日の国家権力と、今日の国家権力なのである。詳しく説明しよう。

戦後すぐ、日本は太平洋戦争が起こるきっかけを自分たちが作ったとして、大いに反省し、その時点で国家権力は何としてでも今後戦争を起こさない国を目指そうとした。しかし、状況が変わればまた日本は戦争への道を進むかもしれない。だが、万が一そういう状況に陥っても、今ここで世界に向けて戦争を起こさないと誓いを立てておけば、戦争実行へのつっかえ棒となるかもしれない。こういう発想である。こういうものを行動経済学の言葉ではコミットメントデバイスという。

したがって、憲法はこの場合時間を超えた監視を国家権力に対して行おうとする試みなのである。しかし、当然のことながらそんなものには限界がある。例えば今の安倍内閣が何らかの理由で、本当に本気で他国と戦争をしようと思えば、それは憲法があろうが何があろうが、戦争をしてしまうに違いないのである。安倍内閣が戦争をしようというときに、吉田茂だか芦田均だかがやってきて「戦争反対」とか、仮に言ったとしても彼らには国家権力に対抗できるだけの権力があるはずもない(もちろん、既に死んでいるわけだし)。

だから、結局憲法だとか言っても戦争の抑止、国家権力の行使に関して現実の抑止力、制限力はないのである。制限力を宿しているのは誰か。それはすなわち国民であり、いかに国家権力が戦争を行いたくても国民が集合的にNOを堅持すれば戦争などできるはずもない。逆に言えば、国民が集合的に戦争を起こしたいのであれば、結局はそれをとどめることはできない。ナショナリズムが第二次世界大戦の原因であり、ヒトラー個人がそれなのではない。

憲法のようなものに頼るのは、自分たちの国家権力に対する不信だけでなく、自分たちが国家権力を将来にわたって満足にチェックすることができないのではないかという自信の無さを示しているともいえる。もっと自分たちの民主主義に自信を持った方がいい。私の主張はそこなので、こういうものに関しては憲法の条文のような、案山子のようなものに頼るべきではないと思っている。

むしろ、憲法の条文のごときは状況の変化に応じて柔軟に変更できるようにしておくことが肝心だろう。要するに、ルールはルールであって、ルールでしかない。何をなすべきなのか、何が目的か、というようなことが一番最初に来るべきである。その規範論にルールが従うというのがあるべき姿であろうと思う。

最近の九条の議論などを見ていると、平和憲法を守れ、アベ政治を許さない、みたいなところで思考停止していることに、私などはむしろ危機感を感じるのである。そのような思考の短絡が、むしろ日本を太平洋戦争に向かわせたのではなかったか。もっと民主主義というものがどういうものなのか、真剣に考える時間を作った方がいいのじゃないか。そのように切に願っている。