Friday, December 28, 2012

スポーツにおける倫理;Ethics in Sports (Jp)

韓国のオリンピック代表チームは今年のロンドンオリンピックで銅メダルに輝いたわけだが、ある選手が日本との三位決定戦に2-0で勝利した直後に政治的メッセージを掲げたとして批判されたことは別にしても、この銅メダルに輝いた若者たちが手にしたものはスポーツにおける栄誉よりも遥かに重たい。すなわち、兵役免除である。実際に免除が適用されたのかどうかまでは確認していないが、若い時代の二年間を無駄にしなくて済むのであれば喜びはひとしおだろう。つまり兵役免除は、どんなことをしてでも勝ちたいと彼らに思わせるための強力なインセンティブ(誘因)として作用するはずである。

オリンピックイヤーだったにもかかわらず、いやむしろだからこそというべきか、今年もスポーツ界はスキャンダルにまみれていた。ランス・アームストロングは自転車界から追放され、ペンシルバニア州立大学のフットボールコーチは子供に対する性的暴行の疑いで起訴され、オリンピックのバトミントンでは無気力試合が取りざたされ、NHLはストライキに入り、など、枚挙に暇がない。シカゴ大学ブース経営大学院の私のクラスでも、ドーピングがなぜ違法なのかという議論になった。最先端の科学技術を応用した軽量シューズを履くことと、EPOという生体内にもともと存在するホルモンで赤血球を増加させる作用がある薬の注射をすることととはどこが違うのだろう。この違いを説明することは、そんなに簡単なことではない。一つの重要な説明は、ドーピングは不自然な形で選手の健康に悪影響を及ぼす可能性がある、というものだ。しかし、NFLの選手たちは選手としてのキャリアの最中に浴びる数え切れない回数の強烈なヒットによって脳への恒久的なダメージを受けている。Junior Seauは今年自殺したもとNFLのスーパースターだが、NFL選手が引退直後、若しくは晩年になってから中枢神経系の症状を示す、あるいはSeauのように自殺してしまう頻度が統計的に有意に高いということは知られている。NFLはフットボール競技自体が健康被害を不可避的に含んでいるからというような理由で興行を終了するというようなことは、少なくとも近いうちにはありえない。そうだとすると、健康上の問題があるからという理由だけでドーピングを違法だとするのはおかしいだろう。

今年は二つの大きな問題が日本柔道界を蝕んだ。一つは、柔道が1964年にオリンピックに正式種目として採用されて以来初めて、男子として金メダルを一つも取れなかったこと。これは柔道でも、日本が世界水準への適応ができなかったためである、とされている(柔道に限ったことじゃないが)。もう一つは、柔道史上最悪の汚点と言っていい。オリンピックで連覇を成し遂げた英雄、内芝正人被告が自分の教え子である未成年者の女子に性的な暴行を加えたということで逮捕されたことである。逮捕自体は去年の末に起こったのだが、実態が明らかになってきたのは今年に入ってからのことで、国民は栄光の陰で何が行われてきたのか知ることとなった。裁判では昨日、検察が懲役5年を求刑したとのことである。

ここで生じる疑問は、国技である柔道、そして柔道界に対して既に多大な貢献を行っていて、実績も十分な内芝被告がこの刑事責任について免責される可能性はあるのだろうか、という点である。国に対する貢献が十分である内芝被告がいる一方で、200万人に及ぶ生活保護受給者は純粋に日本経済の寄生虫であり、毎日せっせと日本経済をより弱体化させている。この議論は、韓国オリンピックサッカーチームがたった一つの銅メダルで兵役免除を勝ち得たことや、日本男子柔道が全体として内芝被告の水準に遠く及ばなかった事実、そして日本の柔道団体の活動が日本国民の血税を源とする国からの補助に大きく依存していることを考慮すると、問題点がより鮮明になる。少なくとも日本柔道界は、自分たちがかつての栄光を取り戻すために、どのようなインセンティブが選手たちのモチベーションを高める効果があるのかということについて考え始めるべき時に来ている。

スポーツが商業化、そして国家プロジェクト化してゆく中で、成績の向上が福祉(あるいは倫理)を犠牲にする性質を帯びてきている。経済学的にはcost-quality frontier(訳が難しいが、費用-効用限界曲線となるだろうか)に近づいてきているのである。そして倫理の効用曲線がどのような形になるのかということについては、今のところコンセンサスは得られていない。

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