Saturday, December 31, 2016

2016年末に寄せて

お世話になった皆様

2016年は「不思議な」としか形容できないような一年でした。人類がこれまでの築き上げてきた価値観や英知などといったものが、いわゆるポピュリズム的なうねりによって大きな疑問符を突き付けられた年であったと言ってもよいと思います。民主主義や市場の失敗としか解釈できないような出来事が次から次へと起こり、利害関係の調整はより難しく、多様性は分断を助長するものでしかないと皆が考えるようになったように見えます。所有者は自らの所有物が損なわれることを恐れ、既得権益は過剰なまでに守られました。与え、与えられることよりも、失わないことが優先される世界。この世界の傾向こそが今年起こった様々な混乱の原因だったのではないかと個人的には考えています。そしてこの傾向は当分維持されるような気がするのです。来年は欧州の主要国で選挙があり、また「あの」トランプ氏が米国大統領になるのも確実です。2017年には今年起こった様々な混乱を収拾する必要があるはずなのですが、だれもそんな交通整理をしたいと思っていないように見え、世界はまだまだ混乱から抜け出せないように感じています。

そんな中でも、そして日本の医薬品業界の経済的・政治的な低迷にもかかわらず、われわれe-Projectionにとって2016年が飛躍の年であったことに疑いの余地はありません。たった14カ月前に誕生したe-Projectionですが、この1年の間に書籍を出版し、オリジナルな分析論文が5報も掲載され、2つのイベントに参加し、4つの共同リサーチプロジェクトを走らせました。今年、弊社の事業活動をサポートしてくださったみなさま方一人ひとりのおかげであり、いくら感謝しても感謝し足りません。われわれは今後も引き続きこの成長を維持してゆきたいと考えています。そのためには3つの短期目標と、1つの中期目標を設定いたしました。
  • 2017年末までに
    • 都内にオフィスを構えます。
    • 株式会社化します。
    • フルタイムの従業員を一人以上雇用します。
    • これらをすべて無借金で実現します。
  • 2019年には
    • 年商1億円を突破します。
この成長を達成するために。来年早々にも東京都からどのような支援を受けられそうかというディスカッションを始めます。これには様々な助成金や、インキュベーター施設への入居、人材派遣などが含まれます。これまでのところ、東京都中小企業振興公社サイドは非常に前向きで、私たちも彼らの支援企業の一つとしてどのように彼らにもメリットを返して行けそうかという点を含めて考えています。また、引き続きビジネスネットワークの拡大のためにも、また潜在顧客としても、製薬企業、バイオテック企業の皆様方との面談も進めてまいりたいと思っておりますので、どうか変わらぬご支援をよろしくお願いいたします。

新年が皆様にとって良い年となりますよう、また皆様とまたお目にかかれますように願って、年末のごあいさつに代えさせていただきたいと存じます。





長手寿明
President, e-Projection

Friday, December 30, 2016

Year end remarks 2016

Dear our supporters,

Due to the lack of a better expression, 2016 was an "interesting" year, which many of our conventional values and wisdom were challenged by somewhat populism-related tides. We have experienced multiple and consecutive events that could be interpreted as a failure of democracy and of markets. Interests were not aligned within the general public, and diversity seem to only increase the internal divide. All over the world people seemed to be apprehensive about losing what they already own and was trying to over-protect their vested interests. There was less sense of giving and more of defending. And in my opinion, this was the cause of the huge mess that happened this year and I see no signs of improvement moving into the next. We have upcoming general elections in major European countries and the controversial President-elect in US will certainly become the Commander in Chief. More simply, in the coming year, people will have to pay back their bills. But nobody seems to be feeling that they are responsible.

Looking back on this year's e-Projection's business, 2016 was undoubtedly a year of expansion despite of the tough economic and political environment in the Japanese pharmaceutical industry. Founded just fourteen month ago, we have published one textbook, five original research articles, attended two conferences and went into four research collaboration deals. I cannot thank more to you all who supported our activities in the last 12 months. We will continue to strive after our growth in the coming year. We have three clear short-term goals and one mid-term, which are,

  • by the end of 2017
    • we will settle into a physical office
    • we will be incorporated as private company
    • we will hire more than one full-time employee
    • we will achieve this without any debt financing
  • on year 2019
    • we will become a 100 million JPY (approx USD 1 million) business
Early next year we will start discussions with the Tokyo metropolitan government about the subsidies and other offerings that can boost our growth. This will include moving into a startup incubator, financial supporting and accessing human resources. So far they are positive on the prospects of our business and we will see how our business can increase the diversity of the portfolio of companies that they support. Also, I will continue to meet with companies using various opportunities not only as a potential customer but also trying to expand the network of business.

I wish you all the best for the coming year and hope to see you in person very soon.





Sincerely yours,


Tosh Nagate
President, e-Projection

Saturday, December 3, 2016

未婚であることのトレードオフ

土曜の昼下がり、代々木上原の駅ビルに入っている中華料理屋「梅蘭」で一人で昼食を取ることにした。店に入り、一人であることを告げると、店員に案内されたのは長いソファーに向かって小さなテーブルがたくさん並んでいる席で、反対側には椅子があるものの混んでいなければ一人用の席として用意されていると言っていい席である。

周りを見渡してみると、少なくとも私と同じか、年上のお一人様ばかりがその一人用のテーブルに並んでいる。それどころか店の中はほとんどが一人できている客である。男女比は4:6で女性が多いか。なんだかある意味凄惨な眺めである。自分を棚に上げて思う。この人たちはいったいどういう理由で一人で土曜日の昼食を一人で中華料理店で取らなければならないのであろうか。家族はどうしたのか。そもそも普段は何をしているのだろう。

そのようなことを考えていると、隣の60代と思われる男性が帰り際に(案の定)店員に文句を言い始めた。「餃子のたれの量が多すぎる。餃子は二切れしか来ていないのに、これじゃあ日本人の感覚から言うともったいないんだよ。四切れならこの量で良いけど、これじゃあ多すぎる。いや、いおいしいよ。おいしいから言うんだよ。」これを横で聞いていて、私はますます陰鬱な気分になった。きっと本人に悪気はない。恐らく店のためを思って言っているのだろうが、それによってオペレーションに何らかの変更が加わるはずもないし、それでも店員はぺこぺこして謝りながら聞いている。ここでは双方に悪意はない(強いて言えば男性は罪のない自己顕示欲を発露させているのが未必の故意に近いかもしれない)。にもかかわらず、こういう不幸なことが起こって、店員も男性も、そして何より隣で聞いている私も少しずつ不幸になっている。こういう現象をミクロ経済学では負の外部性negative externalityという。

ここでは思い切って途中の議論はすっ飛ばして、結婚をしていないこと、すなわち独身でいることがある種の負の外部性が生ずるような性質と相関している、と仮定してみよう。乱暴な議論だが、土曜日の昼下がりに一人で(やや)ハイエンドな中華料理屋で食事をしているのは、少なくとも半数以上は独身者であるのに違いない。なぜ彼ら、彼女らは独身なのだろうか。独身でいる理由と負の外部性との間に何らかの関係性があるはずだ、というのが今回の仮説である。

日本では、国立社会保障・人口問題研究所という厚生労働省の関係団体が「独身者調査」という(恐ろしい)調査を行っている。この調査は大雑把に言うと「若者が結婚して子供を作らないことが原因で日本は高齢化社会に向かっているんだから、そうなっている理由を先ずは調査し、対策を考えよう」という趣旨で行われている。調査は主に18~34歳の未婚者を対象とした定量調査という体裁になっている。このことからもわかるように、この独身者調査は決して独身者全体を対象とした調査ではない。しかし大事なことは、この調査がかなりの長期間にわたって定期的に行われているということである。したがって、時系列的な変化を追ってゆけば、かつての若者であった今の高齢独身者がなぜ独身であることを選択したのかということを考えるヒントになってくれる可能性があるのである(ここでも我々は、今でも独身であることを選んでいる高齢者はかつて若かりし頃にも独身であることを選び取っているはずだという乱暴な仮説を置いている)。

図表I-1-6は18~34歳の未婚男女が「結婚の利点」であるとして考えている要素を時系列的に表現している。ここで見られるパターンとしては以下のようなものがあるだろう。
  • 「精神的安らぎの場が得られる」と「愛情を感じている人と暮らせる」といったようなエモーショナルなメリットを感じている調査対象者は減少傾向にあり、「自分の子どもや家族をもてる」や女性の「経済的に余裕がもてる」というファンクショナルなメリットを感じている調査対象者は増加傾向にある。
  • 「経済的な余裕がもてる」という項目では女性には著しい増加傾向が見られるのに対し、男性は低く維持されており、このことは結婚という制度に由来する経済的な相互依存度の性差が拡大して行っていることを示している。
  • 逆のパターンが見られるのが「愛情を感じている人と暮らせる」であり、もともとは女性が男性より高かったものが、最近では値が近づいてきている。
気を付けなければならないのは、これは結婚をしていない男女に結婚についてどう思うかということを聞いた結果であるために、当然結婚を経験してから感じたことを述べているわけでないということである。ここから見えてくるのは、年配の未婚者にとって結婚とはよりエモーショナルなものであって、逆に言うとファンクショナルな理由から結婚を選ぶという必要性が、今のいわゆる「結婚適齢期(この言葉は個人的にはおかしいと思っているのであえて鍵括弧をつけている)」の未婚者ほどにはないのではないか、と仮定できるということである。

一方、図I-1-8は、同じく18~34歳の未婚男女が今度は「独身生活の利点」であるとして考えている要素を時系列的に表現したものである。こちらは現在の自分の未婚者であるという状態についての経験に基づいたものであることが、先の図表とは大きく異なる点である。これについては、以下のような解釈が可能であろう。
  • 「行動や生き方が自由」であると感じている調査対象者が圧倒的に多く、またそれ以外の要素と比べても極めて多い。
  • 一般的には「結婚の利点」に比べて、時系列的に変動の傾向があまり見られない。
  • 「広い友人関係を保ちやすい」「異性との交際が自由」という結婚以外の人間関係に対する指向性に減少傾向が見られる。

更に図表I-1-7の「未婚者の独身生活の利点」に関する考えの情報を見てみよう。ここから言えそうなことは、

  • 独身生活に利点があると考えている未婚者は男女とも高い割合を維持している。


したがって、過去も未来も、つまり世代にわたって、未婚者は自分が未婚であることを概ね肯定しており、かつその理由は圧倒的に行動や生き方が自由であることによっているということなのである。これらの結果を実社会に大胆に当てはめてみるとこういうことが言えるかもしれない。
  • 日本の社会には、世代を超えて一定数、自由を求めて独身で居続ける、もしくは少なくとも居続けたいと思っている人がいる。
  • 若い世代の未婚者は子供や家族を持つことや、経済的な余裕といったようなファンクショナルな目標を達成するのであれば、自由を捨てて結婚をせざるを得ないというトレードオフを認識している可能性がある。特に若い女性には経済的な余裕を求めて自分の自由をあきらめようとする傾向があるようにも見える。
  • 高齢の未婚者は(おそらく若い世代に比べて裕福であるために)そのようなファンクショナルな必要性を求めておらず、結婚生活とはエモーショナルなものであると考えており、(自分と違って)結婚をしている人はファンクショナルな必要性ではなく、精神的依存性を求めて結婚しているのではないかと考えている可能性がある。

つまり、若い世代で結婚している人の中にはいわば経済的な必要性に従って止むを得ず結婚しているように見える人もいる一方で、高齢の独身者はいわば「自由を勝ち取っている勝者」として自分を見ている可能性がある。そうだとすると、ある土曜の昼下がりの「梅蘭」の60代の男性がとった行動は、世の中のことを分かっていないが故に、だらしない若者の店員に対して教えを垂れてやっているとの立場からのものである、と考えることもできる。

いずれにせよ迷惑な話なのだが、世代間にこういう傾向があるということを把握しておくと、自分の行動も一般的にはそういう世代による影響を受ける可能性があるということを認識しながら行動できるのかもしれない。

Sunday, November 6, 2016

海外出張について

本格的に出張に行くようになったのはもちろん30歳になって勤め始めてからなのだが、海外出張となるとさらに遅くて35の誕生日を迎えるにあたってサンフランシスコに行ったのが生まれて初めてである。ちなみにそもそも日本国外に行ったこと自体もそれが初めてであり、学生時代から海外旅行などをしてきた同期などと比べるとはるかに遅い。その後は定期的に海外に出張に行っていたが、自分を出張の達人などと吹聴する気はない。海外出張に自分よりも高頻度で言っている人間なんていくらでもいる。

自分の場合はこのようにしてそもそも初めて海外に行ったのが遅かったので、行って来いと言われて初めての時は、実際にどうやって行くのかをインターネットを調べまくっておっかなびっくりだった記憶がある。しかし、繰り返し行くうちに、自分のような庶民がどうすればうまく出張を、実務的にも、心理的にも乗り切れるのかということに関するコツみたいなものがだんだん蓄積されてきた。その中には多分にユニークなものもあるはずなので、ここでいったん整理してみようというわけである。今後私のように30半ばすぎてから初めて海外出張に行く人間の、少しでもお役に立てれば幸いである。

1) 洗濯
自慢ではないが、私の自宅には洗濯機というものがない。必要に応じてコインランドリーと手揉み洗いとを組み合わせている。これにはいろいろな健康上の理由もあったりするのだが、私自身があんなカビだらけの醜い箱が部屋の中に存在しているのが許せない思っているということもある。私はそもそも洗濯は嫌いではない。だが、主張先での洗濯はことのほか楽しいのである。幾つか理由を挙げてみる。
  • 温水が使い放題: ざぶざぶ使っても全く罪悪感がない。石鹸水に洗濯物を付けて30秒ほど揉んだら風呂桶が半分くらいになるまで温水を張って二回ほど濯げば、洗濯機を使うよりもはるかにきれいになる。
  • タオル脱水ができる: 手揉み洗濯の最大の問題点が脱水である。しかしながら、ホテルであればその問題は完全に解消できる。つまり、濡れた洗濯物を少しだけ絞ったら(強く絞ると線維を痛めるので注意)、広げたバスタオルの上に広げて、そのまま海苔巻きの要領でくるくると巻く。そのうえで、筒状になったタオルごときゅっと絞るのである。そうするとかなりの水分がタオルに移ってしっかりと脱水できる。ホテルにはふつう余分にタオルが置いてあるし、毎日取り換えてくれるので、極めて好都合である。
  • 加湿: 冬の洗濯ものの部屋干しの大きな動機の一つとなる加湿であるが、日本よりも湿度の高い先進国はシンガポールくらいであり、アメリカやヨーロッパではいつも干している端から瞬く間に洗濯物は乾いてゆく。まあ、実際に加湿効果がどれほどあるかは疑問であるが。
  • 帰国後の後始末の軽減: はっきり言って、汚れた洗濯物を一杯にスーツケースに抱えて帰国したくないのである。汚れた洗濯物というのは「悪」である。そんな文字通りのお荷物をいっぱいに抱えて空港につきたくない。家に帰ってから改めて洗濯とかはもう疲れて時差ボケで、ごめんこうむりたい。
この目的のためだけに、私はシャツのハンガーと折り畳みハンガーとを、出張の際には忘れずにもってゆくことにしている。

2) ジョギング
更に自慢ではないが、私は海外旅行というものをしたことがない。つまり、海外には仕事でしか行ったことがないのである。海外旅行などは女子供の行くものであって、大和男児が行くものではないと固く信じているし、日本人にはそもそも海外でバカンスなどは向いていないとも思っている。はっきり言って日本人男子が海外旅行に行く目的はただ一つ。帰国してから自慢するためである。大学時代から海外旅行によく行っている同級生などのする土産話を私は心ひそかに馬鹿にしていた。やや極端な意見かも知れないが、私は古風な人間なのだ。
しかしそんな私でも、海外出張でたまたま縁があって訪れたその街から、出来るだけのものを吸収したいとは思っている。やはり、多様性は今まで抱えていた問題を別の角度から眺める可能性を提供し、その問題をより効率よく解決するためのヒントを与えてくれるかもしれないとも思っているのである。
そんな時に一番お勧めしたいのはジョギングである。地図を見ながらコースを決め、そこに住んでいる住人と同じ目線で街を眺める。すると観光ガイドが教えてくれないようないろんなことに気が付くはずだ。例えば、私が昔から注目しているのが野鳥である。同じスズメのような鳥でも、日本と海外とでは微妙に違う。そんなことも、ホテルのジムで運動していたのでは気が付かないだろう。
また海外出張ではどうしてもカロリー収支が入超になる傾向にある。美味しいものも出てくるし、朝ご飯はビュッフェスタイルのところも多くて、今まで朝ご飯など殆ど食べなかった私のような人間でも思わずがっついてしまうのである。そんなときにもジョギングはお勧めである。ジョギングシューズだけ持っていけばできる手軽さもよい。ただし、交通事故だけには気を付けなければならない。海外でけがをすることがないようにしたいものだ。

3) 海外出張とはマウンティングである
eメールやSkypeがあり、チームがいくら地理的に離れていてもいくらでも一緒に仕事ができる環境になっている。それにもかかわらずなぜ我々は物理的に移動しなければならないのだろうか。確かに、仕事の中には、face-to-faceで向き合った状態の方が効率よくこなせる場合もある。しかし、私は言いたい。海外出張とはマウンティングであると。「俺は会社にとって、これだけビジネスクラスで出張に行かせて貰えるくらい、重要な人間なんだ」「わかったか、お前らとは違うんだ」
実際に、海外出張に行っていることを自慢する人は多い。恐らく、フェイスブックなどはその目的のために主に使われていると言っても過言ではあるまい。そして、やがてそういう連中は自分のマイルがいくら溜まっただとか、フリークエント・フライヤーのステータスがゴールドだプラチナだと騒ぎ始めるのである。実に見苦しい。逆に、私のように海外出張をお預けを食わされていた人間は(某社に勤めていた時には社命でパスポートを取ったものの、その後2年近く一度も海外出張に行くことはなかったという、苦い思い出がある)それだけに結構ルサンチマンがたまったりしていた。だからこそ声を大にして言いたい。「そんなこと言ったって、所詮会社に行かせてもらってるだけだろ」と。

そして、初めて海外出張に行くあなた。おめでとうございます。しかし、社内には必ずあなたの海外出張を面白くないと思っている人がいます。その人たちのことも考えて、どうかそっと行ってきてください。決して自慢げに行ってはなりません。「同期の中で俺が海外出張は一番乗りだ」だとか、そういうことは顔にも出してはいけません。ましてやフェイスブックにあげるなど、論外です。日本社会は嫉妬の社会。ねたまれていいことはありません。あなたが海外に行っている間に、ひそかにあなた抜きの同期会が計画されてしまったりするものなのです。きっとそこでは、いつも以上にあることないこと言われます。誰にも内緒で行くぐらいでちょうどいいのかもしれません。

このくらいの心の準備をしておくと、海外出張くらいは余裕でこなせるのではないだろうか。

Thursday, August 18, 2016

The Constitution as a Commitment Device and its Limits

Hitotsubashi University, the beautiful campus where I studied law
Although I studied law when I was in undergrad, I should not say that I am an expert on it. Japanese collage education only by itself is mostly not enough to rear a cutting edge expert. In the sector of social science, especially the faculty of law is usually positioned as a place which graduates are more generalist than they are an expert. Unlike the US, law school graduates are not automatically considered as lawyers but they have to go post grad schools and pass a tough exam to become a full-fledged legal professional. This in return puts the undergrad school a little bit in the middle.

However, that does not mean that I have no interest in jurisprudence (in fact I studied it for five consecutive years!). Here I am trying to discuss about the potential amendment in our Constitution, given the results of the latest election of the Upper House. At the beginning I should make my position clear; I am pro to any amendments, not only but certainly including the 9th Clause. For those who are not familiar with the Japanese Constitution (even though very recently Joe Biden told that it was the US that had written it) the 9th Clause declares that Japan should pursue peace and therefore will not possess any army forces as well as armaments forever.

While it is important that we prepare laws prior to any exercise of power, any law including the constitution is merely a description of a set of rules. Turkish president Mr. Recep Tayyip Erdogan is allegedly trying to re-introduce death penalty to punish the coup leaders retroactively, which is clearly a violation of the principle of legality and cannot be tolerated.

One of the main objectives of a constitution is to restrain state power. Governments can stampede in the direction against national and people’s interest, a prominent example being resort to warfare against other countries. War can happen in a situation when nobody in the country is looking for it, and in order not to make that happen there should be some sorts of safety valves in place. The Japanese Constitution has that mechanism built in as the declaration of the pursuit of peace.

Any law including the constitution is actually implemented and enforced by state power, therefore when we talk about the constitution trying to limit state power, what happens in fact is that state powers conflict internally. What does that mean that powers cause internal conflicts? It sounds a bit strange. But the powers that are conflicting are those in the past and present. Let me try to explain.

After WWII, on the reflection that Japan was responsible as pulling the direct trigger to the World War, the Japanese government decided to make sure that something like that will never happen again. However, under different conditions, Japan may once again resort to warfare at any time in the future. The whole idea was that declaring peace in the constitution may work to prevent Japan from going to that direction. In behavioral economics we call something like this a commitment device.

So the declaration of peace in the constitution was an approach to watch and surveil the government beyond time. Yet common sense tells us that this approach has limitations. If Prime Minister Abe seriously wants to attack another country with force, the constitution is not enough to avoid him from doing so. Even if the past Prime Ministers at the time when the constitution was published all gather together and try to stop him, they effectively have no political power (and of course they have all passed away).

Therefore the constitution itself does not have the ultimate power to prevent our country from exercising state power and resorting to warfare. What embodies this preventive power is the people. If the all citizens in Japan keep on telling NO to the government it can never get into war. On the contrary, if all Japanese people desire war, there will be nothing to stop it from happening. It was not Hitler as a person but nationalism at that time in Germany that caused the WWII.

Reliance to the constitution shows that we are not putting the right amount of confidence on our government as well as onto ourselves about the ability to review what our government is doing. We should be proud of the power of our democracy. We should not depend on such a conceptual institution in making decisions about our future.

Language of the Constitution should be flexible enough to meet the fast changing environment. Rules are just rules and not more than that. The goals, things that we think we really need, should come first and rules should always be secondary. Recent discussions around the 9th clause makes me uncomfortable as those obstructionists who are calling for conserving the “Peace Constitution” or claiming that they are “Not Allowing Abe” to change anything appears to me that they are severely myopic. Wasn’t this very myopia the actual cause of Japan moving towards WWII? They should start thinking about what a true and effective democracy is. And I think there is a global trend at the moment that people are somehow forgetting the real value of democracy, which puts us on a politically riskier situation.

Wednesday, August 17, 2016

コミットメンドデバイスとしての憲法

美しきわが母校
私は法学部卒の法学士だが、法学については専門家であるというわけではない。日本の学部教育ってそういうものだよねと言ってしまえばそれまでだが、社会科学系の学部の中でも特に法学部はつぶしが利くというか、専門的になろうと思うとその上の法科大学院から法曹という専門教育のセグメントもあるので、学部教育は一般的になってしまうのも無理からぬことではある。

とはいうものの法学について何の知識も興味もないということでもない(5年も勉強したので、苦笑)。ここで話題にしたいのは今般の参院選の結果を受けての憲法改正に関する議論である。最初に自分の立場を明確にしておくと、私は憲法は必要に応じて改正すべきであると考えている。別に九条に限ったことではなく、しかし九条も明確に含んでいる。

なぜか。それは、憲法も含めた法などというものは、所詮はルールを書き表したものに過ぎないと思っているからである。ルールにはいろいろな存在意義があると思うし、ルールを予め表明しているということは非常に重要なことである。トルコのエルドアン大統領が死刑を復活してクーデターの首謀者に対して適用しようとしているようだが、こんな罪刑法定主義というか遡及効を無視したような暴挙が許されていいはずがない。

しかしながら、憲法に関してはその最大の目的といえるのは国家権力の制限であろう。国家権力は時として暴走し、それは結果的に国民の利益に反する行動をとる場合がある。その最たるものが国際紛争について戦争という手段に訴えることである。戦争は国民誰もが望んでいないのに起こってしまうことがあるため、そういう状況が、少なくとも日本には招来しないようにするためにも、様々な安全弁を用意しておきたい。その安全弁の一つとして、戦争をしないことを自ら宣言しておくという役割を、憲法は部分的に担っているのである。

ところで、憲法に限らず、法というものは結局のところ国家権力が作り、インプリメントするものである。したがって、憲法が国家権力を制限するというとき、それはすなわち国家権力が内部矛盾するということをもって制限が実効を持つことになる。同じ権力がそのような内部矛盾を宿すということはどういうことだろう。ちょっと考えてみると不思議な気がするのであるが、要するに矛盾しているのは昨日の国家権力と、今日の国家権力なのである。詳しく説明しよう。

戦後すぐ、日本は太平洋戦争が起こるきっかけを自分たちが作ったとして、大いに反省し、その時点で国家権力は何としてでも今後戦争を起こさない国を目指そうとした。しかし、状況が変わればまた日本は戦争への道を進むかもしれない。だが、万が一そういう状況に陥っても、今ここで世界に向けて戦争を起こさないと誓いを立てておけば、戦争実行へのつっかえ棒となるかもしれない。こういう発想である。こういうものを行動経済学の言葉ではコミットメントデバイスという。

したがって、憲法はこの場合時間を超えた監視を国家権力に対して行おうとする試みなのである。しかし、当然のことながらそんなものには限界がある。例えば今の安倍内閣が何らかの理由で、本当に本気で他国と戦争をしようと思えば、それは憲法があろうが何があろうが、戦争をしてしまうに違いないのである。安倍内閣が戦争をしようというときに、吉田茂だか芦田均だかがやってきて「戦争反対」とか、仮に言ったとしても彼らには国家権力に対抗できるだけの権力があるはずもない(もちろん、既に死んでいるわけだし)。

だから、結局憲法だとか言っても戦争の抑止、国家権力の行使に関して現実の抑止力、制限力はないのである。制限力を宿しているのは誰か。それはすなわち国民であり、いかに国家権力が戦争を行いたくても国民が集合的にNOを堅持すれば戦争などできるはずもない。逆に言えば、国民が集合的に戦争を起こしたいのであれば、結局はそれをとどめることはできない。ナショナリズムが第二次世界大戦の原因であり、ヒトラー個人がそれなのではない。

憲法のようなものに頼るのは、自分たちの国家権力に対する不信だけでなく、自分たちが国家権力を将来にわたって満足にチェックすることができないのではないかという自信の無さを示しているともいえる。もっと自分たちの民主主義に自信を持った方がいい。私の主張はそこなので、こういうものに関しては憲法の条文のような、案山子のようなものに頼るべきではないと思っている。

むしろ、憲法の条文のごときは状況の変化に応じて柔軟に変更できるようにしておくことが肝心だろう。要するに、ルールはルールであって、ルールでしかない。何をなすべきなのか、何が目的か、というようなことが一番最初に来るべきである。その規範論にルールが従うというのがあるべき姿であろうと思う。

最近の九条の議論などを見ていると、平和憲法を守れ、アベ政治を許さない、みたいなところで思考停止していることに、私などはむしろ危機感を感じるのである。そのような思考の短絡が、むしろ日本を太平洋戦争に向かわせたのではなかったか。もっと民主主義というものがどういうものなのか、真剣に考える時間を作った方がいいのじゃないか。そのように切に願っている。

Friday, August 12, 2016

薬剤師は公共の利益のための存在となれるか


過日、薬をもらうために近所の診療所を受診した。私は生まれつきの皮膚病を抱えていて、普段はあまり問題にならないのだが30度を越えてくる東京の夏にはつらくなってくる。そんなわけで処方箋をもらって薬局に行った。すると薬剤師が「XXX(ブランド薬の名前)とジェネリックのどちらにしますか?」と聞いてくるではないか。「どちらでもいいですよ。」薬剤師がどのように反応するのか見てみようと思ってそう答えたが、そうしたらなんとブランド薬が出てきた。ジェネリック薬よりわずかに高いが、そうは言ってもそんなにお高くつくものではない(言っても抗真菌薬の塗り薬だ)。今の日本のルールでは、医師はジェネリックではなくブランド薬を処方することができるが、多くの場合では薬局でジェネリックにスイッチすることができる。そして薬剤師に対しては、一定割合以上のジェネリック処方によって加算が付くというインセンティブがつけられている。これによって、患者が薬理学的には同等でありながら価格が安い薬剤にスイッチすることを促し、ひいては我が国の保険財政を維持しようとしているのである。

だが、残念ながら実際にはそれがここでは機能してはいなかった。この制度には薬局が通れる抜け穴があり、保険財政を守るための機能を十分に果たしているとはいえない。すなわち、一度目標を設定してしまえば、薬局はその目標を達成するまではジェネリック処方に向けて努力をするが、達成した時点でその努力をやめてしまうということである。あるいは、目標値は絶対に達成できないと分かれば、やはりそれをやめるだろう。その場合には、マージンが大きくなる可能性が高いブランド薬を処方する動機が高まる。そしてその考え方がここで実際に起こったことをよく説明している。

こういう政策誘導というのはうまく機能させることも難しい。私などは実際に政策をうまくデザインすることだけによってのみ行動を変容させることができるとは思わない。何というか、良心あるいは職業倫理のようなある種の思い込みがそこにあることも必要ではないか。そうでなければ人々は何とかして抜け穴を探そうとするだろう。国民全員の行動をコントロールできるような、完璧なシステムなどは存在しないのである。

こういういわば思い込みの例というのはいくらでもある。例えば、申し訳ないが私は選挙に行ったことはない。誤解のないようにしておきたいが、私は概念的なレベルではなるべく多くの国民が選挙に行き、投票権を行使して自分の支持する候補者若しくは政党を選ぶということをやった方がいいと思っている。なぜなら、民主主義とはそういうものだからだ。国家は「誰か」ではなく「みんな」のために運営されなければならない。私は友人には選挙に行くことを勧める。私は健康な民主主義による利益を享受していることを知っているからであり、これは利己的な判断である。

一方、私自身は投票しない。理由は二つ。選挙の結果は私によって外的要因であり、自分でコントロール出来ないからである。そしてもう一つの理由は、機会損失が大きすぎてそんなものに時間をかけられないからである。合わせると、私は自分にとってどうにもならないものに自分の貴重な時間を使うほどの余裕がないのである。そして、私の余談の無い、冷静な思考によれば、この経済的状況は私以外の日本人全員に当てはまるはずだ。したがって民主主義においては、合理的な国民は選挙に行くべきでないという矛盾した結論を導くことになってしまう。

にもかかわらず、人々は投票に行く。なぜか。私の考えでは、人々は国民が投票に行くことは義務であるとする思い込みに取りつかれているのである。しかし、よく考えると我々が選挙権をもって投票するということは義務ではない。投票に行かないことによって罰せられるということはないし、投票に行かないという自由を認めるのも民主主義の一態様である(和訳版追記:世界には投票しないことに罰則を設けている国もある)。

なぜ投票することが義務でないかというと、我々は日本に生まれてくることを選ばなかったからである。もう少し詳しく話すと、もしあなた生まれる前に、神様がやってきて、どの国に生まれたいかという希望を取り、選択肢となりうる国に関するあらゆる情報を提供し(税率、マクロ経済指標、女性の権利保護の状況などなど)、あなたがそれらの情報をよく斟酌し、それぞれの選択肢のトレードオフを正しく理解した上で、あなたがある国に生まれてくることを選択したのであれば、あなたは当然に定められた税率で税金を払い、女性の権利を尊重し(あるいは生まれてきた国によってはそれほど尊重せず)、そして投票する義務がある。繰り返すが、それはあなたが選んだからである。(和訳版追記:つまり、そうでない場合は、憲法学などでは納税の「義務」という表現を用いているが、これは国家権力によって「押し付けられている」だけであり、自発的な義務であるとは言えない。ではなぜ我々は納税するのか。それは納税しなければ刑罰というより大きな不利益が発生するためである。言い換えれば我々は合理的な行動として納税しているのである。したがって、刑罰がない場合には投票しないというのも合理的な行動である)

しかし、重要なことは、このような状況にもかかわらず国民は投票し、投票は義務だと思いこんでいるのである。これは、言ってしまえば非常に興味深い現象であるが、このことが示しているのは、人が非合理的な行動をすることを誘導することができる場合があるということである。ということであれば、医師や薬剤師の中に思い込みを形成することによって、自らにとっては不利益的であっても公共にとっては利益的であるような行動をとるような調整をすることができるようになる可能性があることになる。もちろん、ここで重要なのは教育と訓練である。ジェネリック薬が処方できるときに敢えてブランド薬を処方するなどというごときは、自分たちに対して掛け値なしに先行投資してくれた社会に対する罪深い裏切り行為であるという考え方を、医師や薬剤師が持つように教育・訓練すべきである。もちろん直ちに効果を発揮するわけではないが、しかし、低予算で効果が期待できる政策ではないだろうか。

Wednesday, August 10, 2016

Can Our Pharmacists Behave on Behalf of the Public?


Today I have had a chance to visit my doctor to ask for some meds; I carry a mild skin disease which I have lived with throughout my life. I am usually OK with it but sometimes it bothers me especially in extreme weathers like this time of the year in Tokyo, which is too warm (over 90F).

Got my script and went to the pharmacy. Pharmacist asks "which do you prefer, the branded or the generic?" I was a bit surprised and said, "either is fine." I wanted to see what will happen when I gave them the choice with no opinion expressed from my end.

What happened, they gave me the branded drug, slightly expensive than the generic, but still no big deal (it's an old anti-fungal cream). For those who are not familiar with Japanese regulations, the physician still has the authority to prescribe the branded over the generic, but most of the time it could be switched at the pharmacy level. And there is an incentive system to the pharmacist which they receive some benefit when the percentage of the generic drug they dispense within all drugs is above a certain level. This rule is coming from the expectation that this will save the National Health Insurance system with some money when the patients will switch to a pharmacologically equivalent but a cheaper alternative.

In fact that is not what is happening here. There is an easy loophole for the pharmacy that makes it seem that it will never work in favor of the NHI system. Once you set a threshold, pharmacies will do their best to reach it but not any further. That's why I got the branded. They already know that they can clear the hurdle (or maybe they know that they can never clear it) and beyond that it will make sense for them to dispense a more expensive alternative which associates with a larger absolute margin.

Enforcement has never been easy, but I am not sure if only by crafting an incentive system will become a solution to this kind or problem. There needs to be at least a pinch of conscience or a sense of occupational obligation to make this work, otherwise people would just become relentless and endlessly pursue those loopholes. And, of course, there is no perfect system that can fully control everybody's behavior.

There are abundant examples for this kind of morale hazard. For example, I never vote. At a conceptual level, I do wish that all people go and vote, or exercise their suffrage, to choose whichever party or candidate they want to, because that's how a health democracy works. A nation will have to operate in the interest of its participants, not in somebody's. I will advice my friends if they ask me whether they should go vote or not, you should just go. That's because I know that a healthier democratic system will benefit me.
On the other hand, I never vote because of two reasons, one is that voting results are external to me, that is, I can never get to control the outcomes. The other is, voting associates a huge opportunity cost which I feel it is not worth doing so. Altogether, I am too busy to use time for things I cannot control. And as far as I can think through in my unbiased mind, at least this economic situation is the same for the majority of the people in Japan. So if you are an rational player in a democratic game, the contradictory conclusion driven by an economical thought process is that nobody should ever vote.

But interestingly, people still go vote. Why is that? My opinion, people are bound with those mental models that they have the obligation to vote, which in fact is not true at all. You will never be punished by not voting. And that is also one manifestation of democracy, the freedom not to vote is there.

Further more, why voting is not an obligation is because people didn't choose to born in their respective country. What am I talking about? If God asked you, prior to your birth, through which country you would like to come into the world, giving you enough information including tax rates, macro economic indicators and how well women's rights are protected, and you made a conscious decision to choose your nationality given full information to understand the trade offs, then you are logically obliged to pay tax, respect woman (or not depending on your choice) and go voting. Once again, that's because you opted to do so.

But going back to the original point, people are biased towards voting, which is an interesting observation if you will. This means, you can try to control people to behave irrationally. Then why cannot we make physicians and pharmacists work in favor of the public and not in their self interest? I think the key to this is education and training. Educate the physicians and pharmacists that they will develop a mental model that prescribing a branded drug above the generic is a sinful betrayal against the community which invested in you without even knowing that you will be a great physician or pharmacist. This can be a great solution which may not happen in instantaneously but still is affordable approach.

Sunday, August 7, 2016

日本のいわゆる「インド料理店」考

16年8月某日、下高井戸のインド料理店MILANのマトンカレーランチセット。行こうと思っていた食堂が閉まっていたために止むを得ずこちらによったのだが、以外に満足感があってよかった。サラダは日本の御飯茶碗に盛られて出てきた。

残念ながら私は実はインドには行ったことがない。そのために、「本物のインド料理」というものがどういうものなのか、正しく理解しているという強固な自信のようなものはない。
そんな私でも、シカゴにいたときには現地にいるインド人の多くの友人たちからヒンズー最大のお祭りであるDiwaliのディナーに招待してもらったりしたし(自慢ではないがインド人の友達だけは結構いる)、シンガポールにも多くのインド系移民がいるため彼らが食べるためのインド料理店に連れて行ってもらったりした。
したがって、オーセンティックなインド料理というものがいったいどういうものなのか、全く分かっていないというわけではないはずだ。そもそも、彼らの文化そのものも、そしてその文化の一つである料理も、インドの各地域によってかなり違うものであるらしいので、「本物のインド料理」などということに拘ることもあまり意味のあることではないのではないかとさえ思う。

そんな私でも、日本のいわゆる街のインド料理店(日本のインド料理店件数は確実に増えているらしい)で食べるインド料理は、おそらくは正統なインド料理からはかなりかけ離れたものであるだろう、という直感を持つことになるのには理由がある。
それはすなわち、基本的にどのインド料理店も判で押したように同じ料理、同じサービスが出てくるからである。
さっきも言ったように、インド料理とは多様な文化を反映して多様なものであるはずだから、本来であればこのように均質にはならないはずだ。きっと日本人のプロデューサーだか、ブローカーだか、フードコンサルタントだかというような人が、それを仕切っているのだろうとか、ちょっと胡散臭くも感じてしまう。

ほとんどの店がだいたい以下のパターンでサービスを提供している。
  1. インド人のみで運営されている:3人、4人の複数人数で、女性を含む場合もあるが、そのうちの一人が日本語を話せる。日本人のウェイターなどは一人もいない。
  2. カレーナンまたはライス:カレーはいろいろな種類があるが、我々の想像の範囲を超えるようなものはない。チキン、ビーフ、マトン、サグ(ほうれん草)、魚などなど。辛さが選べるケースも非常に多い。そして必ずナンかライスどちらかを選ばせるのだが、今までインド料理屋に入ってナンではなくライスを頼んだ人を見たことがない。ナンはお代わりが可能な場合もある。
  3. セットの飲み物の選択肢にラッシーが必ず入っている。
  4. サラダ:小さいサラダが小鉢に盛られているが、たいていは千切りキャベツと葉物のサラダで例外なくサザンアイランドドレッシングがかかっている。
  5. ナマステ:最近はあまり聞かなくなった(むしろタイ料理店の「こっぷんかー」のほうが気になる)
  6. ボリウッドBollywood:例外なくスクリーンがあり、例のビデオが流れている。
こんなところだろうか。

これだけ見ても、「確かにこれが本場インドで食べられている食事でなどあろう筈がない」と、常識的な人間なら思うであろう。
しかし不思議なのは、日本人というのは今までこと食べるものに関しては本場志向、本物志向を貫いてきており、例えば中華料理やフレンチなども日本人の口に合わせて作ったものなどよりも現地のものそのものをありがたがる傾向が強かったはずなのに、なんでことインドに関してはこうなってしまっているのだろうか、という点である。特に理由はわからない。

しかし、例えばアメリカに日本の寿司職人が行ってSushi restaurantなんかを開いたりするときに、アボガド・ロールだかカリフォルニア・ロールだかを作るときには「ケッ、こんなゲテモノ、喜んで食ってやがるぜ」みたいなことを思うに違いなく、そして、厨房の奥のインド人たちも我々を見て間違いなく同じことを思っているだろうなと想像すると、複雑な気分になるのである。